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雨月物語

前から雨月物語が読みたくて文庫本を探していたのだけれど、なぜか岩波文庫だとばかり思い込んでいて見つからず悶々としていた。見つからないのは当たり前で、岩波文庫からは出版されていないから、という物凄く馬鹿馬鹿しい理由なのだけれど。で、今日本屋へ足を運んで文庫のコーナーをうろうろしていたら、講談社(講談社学術文庫)から上下巻に分けて出版されているのを見つけて、中身を確認することもなく購入した。正直、間違いだった。

青木正次 全訳注「雨月物語」四頁 講談社学術文庫

だから雨月物語の当面の書き手剪枝せんし畸人きじんというのは、より現実的におのおのの話にそくしてみれば、物語という各話共通の方法で次々に九つの物語を続けて語っていく、いわゆる「語り手」というものをさすことになる。剪枝畸人は自分の作品「今古きんこ恠談かいだん雨月物語」をでたらめなむだばなしだと言い切っているが、この語り手はそれは自分が作中の主人公とともに経験した怪奇かいきな現実で、「おそろしくあやしき語柄かたりぐさ」だとして物語っている。

一瞬国語能力に問題があるのかと思えるようなねじれたまえがきで嫌な予感はしたものの、肝心の内容はもっと酷かった。とりあえず長い間読みたくて仕方のなかった「吉備津の釜」だけ読んだのだけれど、他の話を読もうという気力が湧かない。

二段落置きごとに原文、現代語訳、語文注、考釈、の繰り返し。中身を確認しなかった自分が悪いのだけれど、こんなテンポの悪さで読み手が楽しめると思うのだろうか(楽しむことが主な目的でない本なのだろうけれど、それにしても流れぶった切り過ぎ)。現代語訳も中学・高校生が宿題でやってきました的ないかにも直訳で面白みの一切が排除されたような文体で、考釈の余分感も手伝って読む気をみるみるうちに削いでいった。とりあえず「吉備津の釜」は最後まで読んだけれど、本来あるべき読後感は不満のみで埋め尽くされて筆舌に尽くしがたいもの、としか表現できない。

これで 1,150 円。もう講談社学術文庫は買わないだろうし、青木正次氏の文章も進んで読むことはないだろうと思う。社会勉強代。

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