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Soulseek って何?

Orkut の The Cardigans コミュニティを覗いてたら「Nina Persson の the Theme From Randall & Hopkirk はどこ行ったら音源が手に入るんだい?」みたいな書き込みがあって、それに答えて「Soulseek で探しなさいよ」ってのがあった。Soulseek ってのが何か知らなくて、オンラインでの音楽ファイル販売サイトかなとか思って検索かけたらどうやら P2P のファイル共有クライアントらしい。

ファイル共有とか P2P っていうと違法性なんかが取り沙汰されることが多いですが(Winny での逮捕の件とか)、「ウチはそんなもんとは無縁だぜ」並みに明るいサイトの雰囲気なのでどうなんだろう?合法なのか?とか余計躊躇したり。

っていうのはともかく、クイックスタートガイド なんかで「ここは Yes を選択してください」っていう解説の仕方はあまりにいい加減だし利用者も無闇にそれに従うのは能がないとしか言えないのだけれど、現状多くの国外のソフトウェア解説サイトはそのような姿勢であって自分もそれに従っていることがあるのでどうこう言う資格のない能なしです。

リスクがある人の責任

儀式みたいなもんだと思ってますが。

信念持っている、体験生かす…郡山さん・今井さん

自らの責任について問われると、郡山さんは「ジャーナリストは危険だからこそ現場に立って伝えるものがある。リスクを背負っているのだから、僕らには当てはまらない」と話した。さらに、午後8時から日本外国特派員協会で開かれた2回目の会見では、「信念、自信、誇りを持っており、自己責任とか自業自得とか言われるのは心外」としたうえで、「今回、取材は何もできなかった。準備ができ次第、また(イラクに)行きたい」と述べた。

直接記事とは関係ないのだけれど、例の三人が帰国した日に前後して、Yahoo! チャットで郡山氏の「自称恋人」と話す機会があった。当然のことながら落ち着かない様子で、「電話してみたいけど今は無理か」とか「やめといた方がいいんだろうか」ということを何度か繰り返し発言していた。自己ループ。

信念持って行動すること、命懸けで行動することがどんなに難しいかを想像することは難しくないし、そのことで誰かが救えるのだからそうする、というのも尤もだとは思えるけれど、自分のごくごく身近な人間を泣かせてまで、地球の裏側にあるような国のことを心配するんだろうか?人としての器の小さいわたくしめなどは目に見える範囲の誰かに迷惑をかけない程度のことで精一杯なので、親家族兄弟恋人友人その他大勢の自分に関わった誰かを不幸にする可能性を大いに孕みながら、そのような渦中へ身を投じる自己犠牲のような概念は全く理解できないところであります。誰かが泣いてるから頑張って、その代償として別の誰かを泣かせてどうしようっていうんですか。

実験的な意味合いや良し

すげえ。

ずっと見続けていたいような、割と時間が無駄になりそうなので見なくてもいいんじゃないかみたいな。気が向いたら見るかみたいな。

ていうかこのブログを紹介しているブログで「有益な情報を持つ者のみブログを運営するべき、というのは典型的な妄想」みたいなことが書かれていたのだけれど、そもそも有益でない情報つまり同じクラスの何とかちゃんが好きだとか携帯キャリアはどこどこが好きですとか、これこれこういうニュースがあってへぇーと思いましたとかの二次的な感想文などを含め、有益でない情報をネットにだらだらと排出し続けることそのものがろくでもないことなので、何もブログに限った話でなくそのようなサイトは淘汰されて然るべきであると思われるのですが、日本に限らず世界全体で日記やその他無益な情報を書き連ねることは伝統的な個人情報発信あるいは一部のネットジャンキーにとって習慣となりつつあるし、無益な情報を排除せよということになったらまず自分のサイトを全削除せねばならないことは目に見えているので無益な情報書き連ねてもいいと思います。

言葉のあやではあるけれど、「有益な情報」「無益な情報」の定義にも依るのでこんなことを書くのが一番馬鹿馬鹿しいと思います。前述の念力ブログも、「はたして念力でブログは書けるのだろうか?」という情報を求めている人にとっては至極有益なブログであるので、そこらへん曖昧なまま無闇に有益無益を語ることこそリソースの無駄であると考えられます。「ブログ」ってたくさん書いた。

オフライン作業してた

どうもアンカーの上にカーソルを持っていくと指のマークになって横へ○に斜線を入れた交通標識で言うところの駐車禁止みたいなやつが出てくるものだから、あれ何の設定いじくったっけとか思いつつ支障もないのでそのまま作業などを続けていたら勝手にメッセンジャーが落ちたりして「HTTP 経由でチケットを取得しようとしたところ云々」などというメッセージが出てくる。

そういえば何かで「オフライン作業」を選択したかも知れない、と破綻気味の脳細胞を活用して思い出してみれば、あったあった。RealPlayer。毎回毎回セットアップ名目で Real に繋ぎたがるものだから、デフォルトでオフラインにしておいてやろうと思ってメニューから「オフライン作業」を選択したんだった。

っていうかオフラインにしたいのは RealPlayer だけであって、他のアプリケーションに影響を及ぼすことは全くもって不本意であるわけですが、どうしてこのような傲慢な挙動をしますかこの RealPlayer というアレは。rm ファイルに対応した他プレイヤーが現れれば即刻アンインストールするのに。忌々しい。

芸人さんって大変ですね

エンタの神様を見るにつけあの全然映りもしないゲストどもは CM の最中に面白おかしいトークや芸能界の裏事情や今夜の食事の約束など取り付けているであろうことを想像したら治外法権に対する尊皇攘夷派のそれのような憎悪と呼ぶには度の過ぎた猛々しい憤怒の感情が沸いてくるのだけれどそのような情報は全く何の役にも立たないし放送されたところでトリビアの域すら脱しないので現状維持でいいやと思った。

とりあえず字幕を入れることの意義や何やらを考えると恐らく欽ちゃんこと萩本欽一が字幕スーパーを「お笑いの新しい可能性」と絶賛したことと少なからず因果関係があるのだろうことは想像に難くないが字幕垂れ流しはむしろ逆効果だし字幕がないと何言ってるかわかんない芸人はもはやしゃべりのレベルが人前に出れるそれに達していないのでしゃべり場とかで場数を踏むといいと思った。

句読点の全然ない文章が読みにくいことなんて小学生でも知っていることなのだけれど最近の小学生はきっと本とか読まないし本を読んでいる小学生だって普段慣れた読みやすい文体以外のダメな文章に触れておくことも社会勉強であるからその点においてのみこのエントリーは価値を成すとか自分に言い訳を用意してもいるのだけれど小学生相手のつかみを気にしているさまは自分より年下の客を相手に冷や汗を流す芸人の初舞台での心境に酷似しているのではないかとも思えたが確認の手段もないので唐突に文章を終わらせることにする。

文字

ネットで読める、いわゆる小説とか小話という類のものにはもう随分と興味を持てなくなっていて、まぁはっきり言えば自分で書くことにも以前ほど情熱を持てなくなっていて、というか元々大して持っていないから数値的に言えば 200 のものが 180 くらいになっただけのことなのだけれど、単位も一般的な数値もよくわからないからこの数値による比較は失敗です。

といっても実験的な文章にはそれなりに興味を持っていたりもするのだけれど、あ、だからって 404 がそういうアレかっていうとそれはまた別の話で、これはただの頭悪い文章で。例えば "MEMENTO" のような形式的な斬新さというのはなかなかネットでの小説には見られないけれど、っていうかああいうの書いてみるのもありかとか今思いついたのでそのうち試して見ます。404 は脳と指が直結した文章を書いているので頭悪いことが露呈しまくる文章をお届けしています。

何書きたいかも不鮮明だな。ああ。

ネットでファンタジー

ついでに、というか。ひとつ前のエントリーの流れで。

ネットにおける小説(いわゆるオンラインノベル)のジャンルで最大手は恐らくファンタジーであると思われる。検索エンジンなんかの登録数が一桁違いだとかは日常茶飯事、ってくらいに多い。とにかく多い。で、これが嫌いということは前からあちこちで書いているのだけれど、詳細に理由を分析したことはなかったのでしてみる。いやしてたかも知れないけれど結局結論に達していないので再度試みる。

ネットでファンタジー小説を公開しているのは、おそらく十代前半~二十代半ば、あるいは二十代後半であるように思われる。この辺りは正確な統計データなどないので推測に過ぎないことは言うまでもない。

まず十代前半に焦点を当てると、彼らの文章はほとんどが読むに値しない。文章における最低限の作法すら守れていないものが多い。一人称で語り始められた文章が中間で三人称へすり替わったり、語尾の統一がされていなかったり、台詞以外は状況説明のみで進行していたり。これはファンタジーに限定した話ではないけれど。ある者は脚本のようなものを「小説です!」と元気良く公開していたりもする。これに関しては年を重ねて何かしら変化が訪れるかも知れないので生暖かく見守ると良いように思われる。

十代後半~二十代前半のそれは、十代前半の彼らと状況が違う。自分が何をどうしているかの自覚はあるものと思われるし、客観的に見ても二十代前半の彼らが軌道修正する機会はより少ない。その点において傍観者は、更正し損ねた不良少年を見るのと同じような感情を抱くこともあると思われる。
彼らのうちの多くは恐らく原体験に、ドラゴンクエスト・ファイナルファンタジーなど黎明期のコンシューマゲーム機におけるロール・プレイング・ゲームをプレイした、というものがあると考えられる。これが彼らがファンタジー小説なるものを書く原因の大半を占めていると思われる。だから彼らの小説はまず DQ・FF の世界観・価値観ありきだし、途方もなく強大な悪者がいて、それを倒して世界平和を勝ち取る、そこへと辿り着く過程を延々と描いて楽しむということが面白いと思っている可能性がある。出発地点がファミリーコンピュータに押し込められた小さな世界から抜け出せていないのであれば、彼らの描き出す異世界が陳腐なものであることは至極当然であるし、そもそも DQ・FF が先駆者のファンタジー小説からわかりやすいエッセンスを抽出したものであるから、それの劣化コピーが世界観を形成しきることには途方もない努力あるいは才能を要する。そんなことができる人間は真剣に文学で飯を食べていくことを検討すると思われる。
またその他の多くはいわゆるライトノベルを読んで「自分も書きたい!」との結論に至ったのであろう。ライトノベルそのものに関して言及するとまた長くなるので割愛するが、そういう動機で書き始めたものもまた劣化コピーにしかなりえないことは想像に難くない。その殻を突き破るほどの努力ができるのなら新人賞にでも応募するだろうし、無料で公開してしまうことを「もったいない」と考えるだろう。大したものでもない文字の羅列を有料公開していろいろ問題起こして話題になっているサイトがあるがそれはまた別の話。
また昨今急増しているであろうと想像できるのが(実際に確認はしていない。読むの面倒だから)指輪物語の映画化、あるいはハリー・ポッターのヒットを受けてそのような話を書き始めたケース。例えば映像を動機に文章を書き始めるとして、それまでの過程に原書講読という段階を踏んでなおファンタジーが書きたい、というのであれば、それはもうどこか欠如しているのではないかとも思える。トールキンが生涯を費やして研究・創造した世界を一朝一夕に模倣できると考えている思考回路で何を生み出すか興味はあるけれど、大概想像の範疇を出ない。その段階をすっ飛ばして「映画観た!自分も何か書きたい!」というのであればむしろイラストでも描いた方が良いわけだし、絵が描けないから文章で、という代替手段模索の末の結論であるものが面白いのであれば世の小説家は自己概念の崩壊にでも陥ることだろう。
動機をどこに持っているにしろ彼らの多くは劣化コピーの劣化コピーを繰り返しているだけであって、そこから何か面白いものが生まれてくる可能性は限りなく低い。

あまり内情に詳しくないのだけれど、たまに「ライトファンタジー」なる言葉も見かける。何がライトか知らないけれど、もともと酷く薄口なもののさらにライトというともう読んでも読まなくても同程度の価値しかない文章だよ、と宣伝してまわっているようなものであって、「ライトファンタジー書いてます!」という宣伝文句は「僕の文章には価値がありません!」というようなものであると解釈している。
また「重めのテーマを扱ったファンタジー」という宣伝文句を掲げている文章を読んだことがあるけれど、重めのテーマというのはどうやら命がどうのこうのとかモンスターを殺すことがどうのこうのとか、全くファンタジーである必然性のないものだった。人種差別の記事のひとつでも読んでから書くべきだくらいか感想を持てなかった。あるいはモンスターなる異形の生命体がいたとして、その文章に描かれる「事件」が起こる以前の共存体系はどうなってたの?ってな視点で読んでたらボロしか出てこないとか。物事には過去と未来があることが想像できない文章にリアリティを感じる世代なのだろうか。

とかいろいろファンタジー叩きをしているわけですが、啓蒙活動とかそういうことではなくて、自分がどうして嫌いなのか?ということを究明したいという一点に動機が絞られてくるわけで。なので、面白いファンタジー書いてる人、連絡ください。知ってる人も連絡ください。ね。

※ じゃお前は面白いもの書けるのか?って言われそうですが、芸術評論家が良い芸術家である必要はないとかそういうアレで。いち読み手として客観的な。

ディープリンクとか

なんつうか、個々の HTML ファイルへリンクするのは全然アレなんですが、画像ファイルとかに直接リンクするのはあまり好ましくないんじゃないですかね。自分とこの HTML ファイルに表示させるいわゆる直リンは言わずもがな、pya! の画像ファイルに直でリンクさせてみたりとか。HTML ファイルがあるんだったらそっちへ貼った方が、みたいな。

というかそれでなくて、FLASH ファイルに直接アンカー貼るなよ、と。大抵は HTML ファイル置いてあるんだし、IE なんかだとブラウザに合わせてリサイズされるから汚くなったりするし、なんか心情的にもアレじゃないですか。*****.swf とかステータスバーに出ると「ああ、この人はそういう参照の仕方をする人なのね」とか思ってしまいますよ。

だからどうだってこともないんですけれども。やや神経質。

江戸の敵と長崎で結婚

Poesia さん でまたディープなテーマの文章があって、また興味半分という自身を曝け出さない傍観者の視点でもってそれを読んでいたわけですが、

Other Voices

結婚して数ヶ月、付き合つて三年目の女性の話を聞くと、それはもうまるで親の敵、この恨みを晴らさぬでおくべきか、江戸の敵は長崎で、といふやうな調子で、自分の夫を散々扱き下ろす。

脳の程度が低いことは今さらなので特記することではないけれど、ことわざの意味がわからない。江戸の敵は長崎で?わからないことはとりあえず Google してみる。56 件しかひっかからない。

nitiniti

◎江戸の敵は長崎で

 アメリカには「江戸の敵は長崎で」という弱者の発想が理解出来ていません。よくある事例ですが、プレイボーイが女を騙した後に、その女から思わぬ方法で仕返しされることがあります。その報復方法は概ね卑怯なやり方です。その場合、男のくせに、弱い女の卑怯な手口だけを大声で非難して、原因となった自分の行為を、全く反省しないような男は人間のクズです。
 だから、9月11日のテロを非難する資格は、一般大衆にのみ許されています。傲慢で欲ボケのイスラエルを支援している米国の指導者や、ユダヤ人差別をし、彼等をヨーロッパやロシア等からイスラエルに追いやった各国の差別主義者連中には、テロを非難する資格はありません。

わからない。ので、横着せずに辞典。

国語辞典 英和辞典 和英辞典 - goo 辞書

――の敵(かたき)を長崎で討つ
〔江戸と長崎とは非常に離れているところから〕意外な所や全く別のことで昔の恨みを晴らす。

なるほどなるほど。

要するにこの場合、「だいたいあの人はいつもそうなのよ、この間だってこれこれこういうことがあって~」という調子で旦那を非難したと受け取れば良いわけですな。という鈍重な思考回路でもってネットをうろうろしているわけですが、気になったことはすぐに辞書を引くと良いと思うよ!と。結婚についていろいろ思うところがあったのだけれど書き切れそうにもないし説得力を丸投げしてしまうほどダメっぷりを露呈したのでこれまで。ぐだぐだ。

17:57 追記
二番目の引用先がアレな文章なので引用を後悔する。

名古屋・巻き?

ニュースというか午後の時間を持て余したマダムらが料理番組の次程度の優先順位で見るような番組で、「名古屋巻きのルーツに迫る」みたいな特集が組まれていた。

ところで、名古屋巻きって何ですか?

母にそのことを話してみたらば「名古屋嬢って呼ばれるんだよ。鞄の中にカーラーとかヘアスプレーも二種類、三種類」「あんた名古屋に住んでるのにそんなことも知らんの?」とのことでした。

名古屋に下宿して八ヶ月になりますがいまだにトワイライトゾーンですね。インドア派(軽度引き篭もり)だから知らないだけだと思いますが。

IE 窓から投げ捨て週間

引用ちょっと長め。

IE は今すぐ窓から投げ捨てろ? : Code-404

この動きは大変素晴らしいですが、誘導の仕方がいただけない。 IE 使用者には一切のコンテンツ内容を表示せずに、誘導リンクのみを表示させようとしているようです。 IE 使用者には誘導リンクとコンテンツ内容の両方を表示させるのではダメなのでしょうか? 少なくとも、 IE だからといっていきなり弾かれるような事をするページなんて、よっぽど興味のあるコンテンツでない限り(少なくとも私は)見たいとは思いません。まずは、 IE 以外の UA を使ってもらうのではなく、 IE はダメな UA なんだという理解を持ってもらう程度でも構わないと思いますが。

Web 制作で生計たてていたり、Web 制作が生き甲斐である、というような状況であればまた違った意見になるのかも知れませんが、IE がろくなレンダリングをしない → IE 全面排除、というのはちょっと短絡的ではないかと。程度の差こそあれ、初回訪問時に JavaScript を使って強制ブックマーク、と同レベルではないですかね。IE 排除運動。

IE が間違ったレンダリングを世間一般に浸透させてしまったこと、正しい HTML が IE を基準として一部に解釈されてしまっていること、は最大手でありながらろくなアップデートをしてこなかった IE の責任ではありますが、それでも閲覧者は IE を使って Web を楽しむ権利があるし、「こちらのコンテンツは IE では正常に表示されません」などという強制排除が行われようものなら(多分そんなことはないけど)その時点で「IE でないとアップデートできないよ」と Windows Update を盾にシェアを保持し続ける MS と同レベルまで自身を貶めてしまうことは明白なわけで。仕様に準拠した HTML、CSS を使いつつ、周囲の制作者に Mozilla などを勧めつつ、「表示が崩れてますよ」などと報告をくれる愛すべき閲覧者には「IE のレンダリングが間違ってるんですよ。Mozilla を試してみてはいかがですか?」と勧めてみる、その程度でいいんじゃないですかね。今さら IE がダメだってことは声高に叫んだりする必要はないわけで。それだったら「IE がダメ」という啓蒙より「ブラウザには選択肢がある」という啓蒙を行うことの方が余程マシなことのように思えます。

半ば投げ捨てた状態の人の言うことではないですが。

IE 窓から投げ捨て週間 2

なんとなく気持ち悪いから大元へも言及。

Internet Explorer 使用者を熱湯で啓蒙

物事を大局的に観られることは出来ても、現実的に観られないようではどうにもなりません。現実的に観て、中野さんや私だけが奮起してみたところでも焼け石に水でしょう。どうか大勢の作成者の方々――Web の進歩を IE が確実に妨げていると信じる方々の賛同を、そして実際の行動を期待しております。

うーん……。長くなりそうなので追記にて。

そもそも「何か特定の要素を持つ閲覧者を強制的に弾いてしまう」という行為は一番達してはいけない結論だと思うわけですよ。何も知らない IE ユーザーがある日自分のページを訪れて、そこに書かれている文字が「このページは IE じゃ見られないよ」と他サイト(Mozilla か Opera のページ)へのアンカーのみ、なんてときに、どんな気持ちになるでしょう?Firefox だと Windows Update できねぇのかチクショウ、って思ったことはないですかね?

Internet Explorer 使用者を熱湯で啓蒙

法律として定められたことを守らず、逆にルールを守ろうとしている人間に迷惑をかけている IE を無意識の犯罪者に喩えましょう。私がここで述べているのは、犯罪者の生きる権利を奪って死刑にしろということではなく、犯罪者を更生させようということです。この記事を書く以前に私がしていたことは、犯罪を犯していると認知していない犯罪者を、数が多過ぎるからという理由で黙認し、娑婆にのさばらせる行為でした。多数決の法則に従い、正義を振りかざす少数派の人間は異端と見なされてしまうので仕方なく犯罪者に合わせているのが現状です。

しかしそこに、犯罪者のほとんどに罪を認知させ、正しい方向に導く絶対的なカリスマが現れたらどうでしょうか。すべてが変わります。

例えがあまりよろしくないですが、比較の仕方もよろしくありません。犯罪者を更正させようとありますが、この場合「お前は男だから性犯罪を犯した。だから去勢すれば更正できるだろう」という暴論と同レベルの圧力がかかっているように感じます。もちろん最終的に IE を使い続けることも選択肢に含まれてはいるでしょうが、IE を使い続けるのであればウチのコンテンツは見せないよ、というのであれば、そのサイトにおいて IE ユーザーは死刑判決を受けたも同然でしょう。罪を認知させる前に実刑判決が下り、あるいは執行されている状態です。

Internet Explorer 使用者を熱湯で啓蒙

アサノ
それでも IE を弾く事は出来ません。そうなると、今度は反対に弱小ブラウザを弾く事と同じような感じになりません? 私は Notice < About < Junkline で示しているように、「どのブラウザでも閲覧出来るように」を第一に目指しているので。

私はこれに全面的に同意します。どのようなブラウザであれどのような閲覧者であれ(程度の低い荒らしだとかそういうのは除いて)、全てのページを閲覧する権利があると考えます。そのために CSS を習得した、という人もいるでしょうし、ブラウザ間の表示の差を必死に埋めようとする努力はそれに起因するものもあるでしょう。犯罪者に喩えるまでもなく、特定のブラウザを意図的に閲覧不可能にすることは、Web 制作者として何よりも重い罪であると考えます。

※ もちろん MS は Windows Update において IE 以外を弾いているわけですから以下略。

世界を知らない一般人

ちょっと。

Web サイト設計における世界観

その3。世界観という言葉がある。フィクションにおいてどういう世界設定を行うかということであるが、オタクと呼ばれる人間はこの世界観――物語世界がどういう価値観にもとづいて成立しているか――に非常に意識的である。現実世界への適応不全感から、オルタナティブとしての物語消費を志す人間をオタクと呼ぶとするなら、であるが。

反対にオタクである内的必然性がなく、ファンタジー小説や SF などにもなじみのない人にとっては、さほど意識されていない概念でもある。

現実の外の世界を必要とするかしないか――必要とする度合いは、現実世界が頼りになるかならないか、そしてその中でうまく立ち回れるか否かなどに依存すると考えられるが――によって世界観への意識は異なるのである。

要約すると「オタクは世界観設定に敏感、なぜなら連中は現実世界でうまくやっていけないから。やつらには非現実の世界が必要」ということが言いたいのだろうけれど、これは見当違いも甚だしいのではないか。

「オタク」が一般的な名詞として広く認知されたような世代(恐らく現在三十代半ばの世代)以降は、「一部の情報に(他を排除してでも)特化した連中」つまりいわゆるオタクと、「面白いことに広く浅く付き合う連中」に二分することができる。

前者は言及するまでもなくゲームやフィギュアやプラモデルに熱中し、ある者はピーターパン症候群などと呼ばれたりもするし、近年になって不登校や社会不適応・引き篭もりとして問題点が顕在化されたりもしている。注意しておきたいのは、それらが全て結果論であるということ。彼らは彼ら自身が楽しむために要素を取捨選択し、その結果現実世界が切り捨てられてしまったに過ぎない。また、何も絵に描いたようなむさ苦しい青年ばかりがオタクではなくて、普段はどこにでもいる好青年でありながら特定の話題に触れると様相を劇的に変化させるような者もいる。必要以上に自分を曝け出さず、気のおけない仲間に対してのみ本性を見せるその姿は、オタクが迫害され、その後社会適応の道を模索しているのだと考えるとなかなかに面白い。

後者は恐らく、何も問題点のないごくごく普通の一般人として受け止められると考えられる。普通に映画を観て、普通に音楽を聴いて、普通にテーマパークで楽しみ、普通に行列のできる店で舌鼓をうつ。趣味と呼べるものを二つ三つ持ってはいるが、人生を賭けるほどに楽しんではおらず、将来自分の能力に見合った商社にでも就職した後には休暇を利用し趣味として楽しむ、人生において娯楽が常に息抜きの地位を確立している健全な連中である。少なくとも「そう見てとれる」。そこに落とし穴がある。

オタクでない連中、つまり物事に浅く広く関わる連中は、感動させられることに慣れている。彼らはクリエイターが用意したモノに触れ、感動の涙を流す。形態は問わない。何でもいい。映画、音楽、小説、アミューズメント施設、テレビという小さなモニタに映された雄大な自然の風景、丸一日かけてマラソンする芸能人がゴールする瞬間、ネットにアップロードされた真偽の定かでない身の上話、あるいは商業ベースの商品の開発秘話。何でもいい。彼らは誰かに感動させられるために情報誌を漁り、ニュースサイトを巡り、一度琴線に触れるものがあれば諸手を挙げて褒め称え、隣の誰かにそれを伝える。隣の誰かはそれにいたく感動し、その隣の誰かに告げる。こうして受動的な感動を求める連中のなかでブームが生まれる。月曜日九時の連続ドラマだとか、そういうもの。

長くなったが、本題を最初の引用について、という点に戻す。オタクと呼ばれる人間はこの世界観――物語世界がどういう価値観にもとづいて成立しているか――に非常に意識的というのは、間違ってはいない。間違っていないどころか、当然のことである。オタクは「何が?どうして?どうなって?」を常に探求しているし、それが解明されれば子供のように喜びはしゃぐし、そこからまた新しい謎が生まれて自分を楽しませる可能性があることを知っている。重箱の隅をつつけばそこに面白いものがあることを知っている。それは、彼らが「感動させられる」ことに飽き足らず、どうすればより自分が感動させられるかを追及し続けるような性質を持っているからだ。
ただここで言及しておかなければならないのは、前述の通り、オタクと呼ばれる連中は自身の感動のためにそれ以外のものを切り捨てることがある。それは現実世界への適応とて例外ではない。彼らが「より楽しむ」ために、現実社会での煩わしいルールを不要のものと断じて淘汰し、自らの殻に閉じこもることは珍しくない。
それを踏まえた上で次のことをさらに述べる。現実世界への適応不全感から、オルタナティブとしての物語消費を志す人間をオタクと呼ぶとするという前提は全くもって誤りである。オタクは現実に絶望して虚構の世界に足を踏み入れるのではない。虚構の世界へ足を踏み入れてから、誤解を恐れない表現をするならば、虚構の世界へ逃避できる保証があって初めて、オタクは現実世界を自分から切り離すのである。逃げる先も見つからないまま現実から自分を切り離してしまう危ない連中は、ビルから飛び降りるかヤク中がなれの果てである。

またオタクである内的必然性がなく、ファンタジー小説や SF などにもなじみのない人にとっては、さほど意識されていない概念という表現は先に述べた「面白いことに広く浅く付き合う連中(オタクでない人々)」のことであるが、彼らが世界観へこだわりを見せないこともまた当然である。彼らは感動できる事実(という名のフィクション)があればそれで満足するのだし、わざわざ自ら頭を突っ込んで世界観を満喫するといったことはしない。彼らの行動パターンにそれがないか、あるいはあったとして、広く浅くが信条の彼らにとってそれは大して面白いものでもないだろうし、多様なメディアに翻弄されることに多忙な彼らにとってそのような時間は浪費以外の何物でもないだろう。

誤った前提から導かれた結論に茶々を入れても何にもならないが、現実の外の世界を必要とするかしないか――必要とする度合いは、現実世界が頼りになるかならないか、そしてその中でうまく立ち回れるか否かなどに依存すると考えられるが――によって世界観への意識は異なる、つまりオタクを貶めるための発言であるところの著者の総意、「オタクが世界観に敏感なのは現実社会でやっていけないから代替物を求めている」、これはどうしようもない認識であり自己防衛、あるいは自虐の言葉でしかないだろう(著者がオタクか、そうでないか、そんなことはどうでもいい)。オタクが世界観に敏感なのではなく、オタクでない連中が世界観にすら無頓着である、ただそれだけのことである。彼らは江戸時代に横文字を使うような剣客漫画をもてはやしもするし、酷く改悪された往年の名作アニメリメイク映画を賛美したりする。それは、彼らが、世界観というごくごく一般的なことにすら目を向けられず、クリエイターが用意した「感動のツボ」で涙を流すためだけに物事に触れ、極端に言えば文化を空費し続けるような連中であるからだ。

オタクが敏感なのではなく、それ以外の連中が鈍感なのである。

グミキャンデーの不思議

よくわからないのですが、Kasugai というメーカー(今時凄いオフィシャルサイト。振り分けとか全然する気もなさそう)のグミを食べてたりしたんですよ。いかにも砂糖と水飴の味がする、あと申し訳程度に果汁の味がする、いかにもアメリカンが好みそうな大味の、日本製とはとても思えないグミを。もしかしたら中国で作ってたりするかも知れないから日本製という表現は正しくないかも知れないけれど、そんなことはこの際どうでもよくて。で、不思議な表現が。

グミ100(パッケージ表)

アップル果汁100%(換算)

小さく(換算)て。っていうか換算で果汁が 100% ってどういうことだ?換算?

グミ100(パッケージ裏)

名称グミキャンデー
原材料名砂糖、水あめ、濃縮アップル果汁、ゼラチン、オブラートパウダー、ソルビトール、酸味料、ゲル化剤(ペクチン)、香料、光沢剤、乳化剤(大豆由来)

ちょっと待ておい。どこが 100% だ。砂糖も水飴も、ソルビトールとか香料とか、果ては光沢剤とかいう怪しげな原材料まで使ってるじゃないか。おかしいと思ったよ、だいたい果汁 100% だったら液体だもんな。良くてシャーベット。固体か液体。グミみたいな半固体とかあり得ない。

という結論に至ったのですが、こういうのってどこかに訴えたら改善とかするんですかね。いやもう、Kasugai のグミキャンデーを積極的に食べようとかそういうつもりはさらさらありませんが。ぶっちゃけ物凄く生活に影響しないレベル。

心霊ビデオってどうですか

ゴールデンウィークなる政府の陰謀によってすっかり夜型の生活をしているダメ人間ですが、というか夜型もダメ人間も元々なので政府の陰謀のせいにする私の陰謀であるわけですが、真人間である昼型の方たちと有意義に時間を共有することなど叶わぬわけであって、で、どうしたかというと、ネットしてました。ダメ人間ポイント、プラス 32 ダメー。合計 850 ダメーオーバー。今期地区チャンピオンがすぐそこに。

でね、ダメ人間が何をしていたかというと、心霊写真ならぬ心霊動画を漁っていました。知る人ぞ知るというか多分あまり知っている人のいないホラー・オカルトフェチであるところの私でありますが、なかなかに良かったです。特に 2003/10/27(Mon)23:32:36 付けでアップロードされた[心霊] 心臓強い方向け(電車とホームの間).mpgというファイル。マジ怖いです。有名な動画ですが。もうね、日常の喧騒とかそういった類のものを忘却の彼方へ押しやった後に人格崩壊が訪れます。誰かに助け求めようとか思わない。ブログを掃き溜めにしようとかいう発想とかしか浮かばない。もう文章書いてて全然自分でも意味わかんない。いつもと違って理路整然と意味わかんない。

とりあえず、これは要チェキであると思います。人格崩壊するといいと思います。ところで、あとふたつダウンロードしておきながら怖くて見れないのですが、どうしたらいいですか。捨てるに捨てられない。今このタイミングで見るのはかなり怖い。どうしよう。

5:03 追記
ちなみにダウンロードしたファイルは以下の三本。

  • [心霊動画] カメラに写った子供【マジでこわいので1人で見るのはやめてください】.avi
  • [心霊] 心臓強い方向け(電車とホームの間).mpg
  • [心霊] うしろにいるよ.mpg

二本目だけ見た。あとの二本もなかなかに怖そうで見れない。

誰か、心霊動画を見るオフとかやりませんか。早急に。

メロン de メロンの不思議

メロンパン食べてたんですよ。神戸屋 という 1918 年から脈々と受け継がれてきた技術を誇るパン屋の(今適当に考えた)。今度は グミ とかでなくて。そしたら、中に何かクリームというには甘くなくメロンパンの皮にしては柔らかすぎるペースト状のよくわからないものが入っていて、一瞬素で驚いたりなんかしたりして、まぁ要するに驚いたんですが、入力してから同じこと普通に繰り返してることに気付きましたが、入ってるんですよ。何か。

メロン de メロン(パッケージ表)

メロン風味のクリーム入り

もう言葉のマジックには騙されませんぜ姐さん。

この場合、恐らくメロン風味というのが物凄く範疇が広い言葉として都合の良い使われ方をしていると考えられる。もうその都合良さったら半端じゃない。合コン帰りの女の子に「家まで送ってよ」とか呼び出されて車出して、実際送ってお茶でも飲んで行こうとか思ったら「またね~」なんてスマイルで門前払い食らって「えー、俺本当に彼氏?」って悩んじゃう法学部三年生(一浪)くらいの都合良さ。同時に青臭さ。どうでもいいこと書いてたらスペース浪費したので追記。浪費人生。

しかしいくら青臭かろうと都合良かろうと悲しき好青年苦学生であろうと、そこらへんの企業的な曖昧さつまり「またね~」なんてスマイルは断じて許すべからず。青臭さとかは法学部三年生(一浪)の方なので全然関係ない。というかそういう脳内設定はもういいですか。闘う主婦の厳しい鷹のごとき目で見ていきます。裏面を。

メロン de メロン(パッケージ裏)

名称菓子パン
原材料名小麦粉・メロン味フラワーペースト・砂糖・卵・牛乳・植物油脂・動物油脂・パン酵母・脱脂粉乳・トレハロース・食塩・乳化剤・増粘多糖類・香料・保存料(剃るビン酸 K)・pH 調整剤・着色料(カロチノイド、クチナシ、紅花黄、ウコン)・イーストフード・ビタミン C
(原材料の一部に大豆、りんごを含む)

よしきた。見切った。メロン味フラワーペーストが怪しい。というか、明らかに怪しい。

で、フラワーペーストって何?ってことで Google する。ぐーぐる。ぐぐる。

フラワーペースト

食品衛生法によるフラワーペーストの定義は…

 小麦粉、澱粉、ナッツ類もしくはその加工品、ココア、チョコレート、コーヒー、果実の果肉または果汁を主原料とし、砂糖、油脂、粉乳、卵、小麦粉等を加えて加熱殺菌し、ペースト状とし、パンまたは菓子に充填または塗布して食用に供するものをいう。
(平成2年の改定で、主原料に芋類、豆類、野菜類が追加された)
だそうです。

だそうです。

えーと、もう最初の趣旨を忘れてしまったのでどう締めればいいのか迷っていたりするのですが、とりあえずこんな明け方になんでこんな食品衛生管理局とかそういう感じの役所の役人ばりの記事を書いているのかとかあるいは主婦の主婦による主婦のための消費者団体として暗部にメスを入れるかのごとく記事を書いているのかよくわからなくなってきました。何のことはなくただ記述されているパッケージの表記をなぞらえただけなんですけどね。

あーそうだ。メロン風味がどうのこうのだ。えーと、全然メロン風味でなくて、なんかあまり好ましくない味というか、入ってない方がいいんじゃないかと思いました。蛇足という言葉を思い出しました。あれはね、酒の席で一番に蛇を書いた男が(以下略

需要と供給と気持ち

「感想ありがとうございます。次回作も頑張って書きます」というのは大方建前である。それはもちろん言った側も言われた側もわかっていることであるとは思うけれど。いや、感想に限らず何かしらリアクションをもらえたら嬉しいことも確実なのだけれど。けれど、それが次回作への意欲につながるというのは建前である。

例えばこれが「感想ありがとうございます。次回作も頑張る意欲が沸きました」などという返答であったとして、さらにこれが本心であったとしたら、今すぐ次回作の構想などかなぐり捨ててしまった方が良い。表向き格好良く、自分を受け入れるために待っている誰かのために書く、というような姿勢であるだけならまだしも、「これが受け入れられないのであればやめてしまおう」などと考えているのであれば今すぐやめてしまった方が良い。誰もそんな無駄に重い気持ちの乗った創作物なんて読みたくもないし、自分のリアクションに創作者の今後が懸かっているのであれば躊躇するのが当然である。いちいち受け手の顔色を伺いながらでしか前に進めないなどというはた迷惑な方法でしかやっていけないのであれば、無理せず自分も受け手にまわった方が無難である。誰も迷惑を被らないし、その方が煩わされる人は少なくて済む。

自分が受け入れられるかどうかなど気にするな。何も言わずとも認める人は認めているし、ひたすら突き進んでしばらく後に結果が現れることもある。評価・賞賛のために行動するな。創作を手段とするな。それは本来目的であるべきで、創作者はそのことを忘れてはならない。

酔っ払ってます。寝ます。

IE はすっぴんの刑に処すべきか

長くなりそうなので結論を一番最初に書いておきますと、どうでもいいし好きにやってください、というのが率直な意見で。

Re: IE 窓から投げ捨て週間

IEに対して妥協を入れているWebサイトの作者は本当にIEを駄目だと考えているのでしょうか?

世間様一般では全然IEが駄目だなんて認識は無いわけで(あればあんなシェアな訳はないです)、 その原因がなんだろうと考えた時、IEでも思惑通りに表示させるCSS利用者(個人)の愚行がそこにはあるわけです。

IE がダメだと認識することと、IE がダメだと認識してそれを上手く吸収するために CSS に工夫を凝らすことと、全く違う次元の話だというのはおわかりいただけるでしょうか。

ご存知のことかとは思いますが、ブラウザ市場では IE は九割を超えるシェアを誇っている、と言われています。これはもちろん、OS 市場最大手である Windows に標準でバンドルされているインターネットブラウザが IE であるから、ですが。

インターネットを初めて利用する方を、新生児に例えるとしましょう。OS は国籍です。ブラウザは差し詰め、生活習慣や宗教などの文化だといえるでしょう。宗教や文化は、長い人生の中で選択し改宗することが可能です。より良い教えに従うも良し、新たに自分で宗教を興すこともあるでしょう。けれど、生まれたばかりの子供に宗教という概念がわかるでしょうか?生まれたときから続けている習慣(週に一度のミサや、日に数度の礼拝)に疑問を持つきっかけが訪れるまで無心にそれを信じて続ける彼らに、何か落ち度はあるのでしょうか?後々に自分が信じていた宗教を振り返ることもあるでしょう。誰かとの出会いが信仰を変えることもあるでしょう。けれどそのきっかけに巡り合うまでに、自分が思いも及ばない宗教上の理由から迫害されたとしたら?ある日訪れたサイトが、自分の概念を越えた領域で自分を拒絶したら?
あまり良い例えではないですが。最大手に機能的な欠陥があるからという理由で、何も知らず一番広い入り口から入ってくる無知な(未知の状態である)ユーザーを無下に扱うことが正しいことだと思われますか?あまりに原理主義的なその発想には同意しかねます。

またその最大手への対応を必死で行う方たちの努力をCSS利用者(個人)の愚行呼ばわりする権利が中野さんにはあるのですか?どのような動機に基づいてであれ(結果的に)あなたは IE の誤った解釈への対応を放棄して、悪いのは無知なユーザーだなんて立ち位置にいるわけです。選択肢があることすら知らされない、また知っていても諸事情により乗り換えられない人もいるはずです。

という、真っ向からの否定的な意見でひとつエントリーを書いてしまうわけですが、結論は最初に述べた通りです。どうでもいいし好きにやってください。「すっぴん」が一番良策であり、そうすべきだと考えるのも中野さんの自由ですし、それによって多くの IE ブラウザ利用者から見放されたとしても、それは自己責任というやつでしょう。

運動したい人はどうぞ勝手にしてもらつて構はないが、あらゆる「運動」がなりふり構はず醜悪なものになつたり、或は手段と目的を取り違へる人を多く生み出したことは念頭におくべきだ。

ただ、今後中野さんに教えを請う CSS 入門者がいたとして、「IE はダメだから問答無用ですっぴんにしなさい」などと教える愚行を犯したりはしませんように。

13:07 追記
別に取り立てて IE を敵視しなくても、仕様に準拠した文書を書いていればやがて間違ったものは淘汰されるはずなわけで云々。AD さんの日記 で適切な意見が述べられているのでそれを参考にすると良いと思います。ただ、私は IE の解釈との折り合いを付ける方法を少なからず知っていて、加えて私のサイトの訪問者の九割強は IE 利用者なので、然るべき対策を取っています。日本のラーメン屋だって、中国国籍のお客さんが増えたら先細りでない箸を用意するでしょう?(完全に憶測ですが)

IE と標準準拠ブラウザの折衷点

また結論から書きますと、IE は確かにダメです。Mozilla は確かに素晴らしいブラウザです。Mozilla は IE より正確で仕様に忠実なレンダリングが可能です。CSS の実装も一歩先を行き、PNG のアルファチャンネルにも対応しています。XHTML の本来の機能を活かせる application/xhtml+xml にも対応しています。

けれど、だからといって、IE を排除しきってしまう必要はどこにもありません。どっちでも程良くレイアウト・デザインできればそっちの方が良いではないですか。無理に IE で酷く見えるようにしなければならない理由はありません。

というか、立場的に平行線を辿るしかないかなぁということを中野さん自身感じてらっしゃるような気がして不毛な予感もしつつ。

Re: IE はすっぴんの刑に処すべきか

本当にIEが駄目だと気づけば、Netscape4.xと同じようにその対応すら止めようとしませんか? 要するにですね、レンダリングエンジンの改善を放置したブラウザに対して未だにデザインの調整まで行う人がいるというのは、 それによって引き起こされているMicrosoftの怠慢を継続させる行為だという、 事の深刻さに気づいていない人に対して啓蒙する必要はまだまだあるいうことです。

事の深刻さをどう捉えているか、その点においては個人差がありまだ情報発信し続けなければならない余地もあるでしょう。しかしそれでも IE への対応はしなければならない事情がある、という方もいます。また IE へ対応している人全てに啓蒙する必要があるわけではないことも同時に言えます。事の深刻さを受けてもなお、閲覧者の大多数が IE ユーザーであったり、また自身の信念からより多くのブラウザで閲覧が可能であるように調整する方もいるでしょう。彼らが対応をしないことによって多くの閲覧者が落胆し、そのサイトを二度と訪れまいと心に決めるような事態になることが予測されても、それでも「IE はダメだからすっぴんにしろ」とふれて回るならばもうそれは啓蒙なんてものではないことは言うまでもありません。

Re: IE はすっぴんの刑に処すべきか

いやあの、私はどちらかというと拒絶ではなく、デザインをIEでまで保とうとする必要が無いのではないか? という意見なのですが。

今回の発端が「IE を窓から投げ捨てろ」ってな台詞だったもので、若干勘違いしてました。申し訳ありません。けれど、対応するしないも各管理人の自由なわけで。必要がある方もいますし必要がない方もいます。

Re: IE はすっぴんの刑に処すべきか

私はユーザが選択することによってIEを使うことを問題視しているわけではなく、 作成者がIEを過剰に優遇している現状と、 それによって発生している将来に影響を及ぼしている被害について、 その行為を「愚行」と言ったのです。

私もユーザが選択することによってIEを使うことを問題視しているという内容は書いていないつもりですが。ユーザーが選択する・しない以前の段階で投げ捨てる・投げ捨てないの話になっているから問題なわけで。例えばインターネットの入り口で誰もがブラウザについて十分中立的な説明を受けた後に選択しインターネット初体験、というシステムであるなら投げ捨てることも全然構いません。

Re: IE はすっぴんの刑に処すべきか

作成者が盲目的に標準仕様に反した情報を信じて情報を発信することは落ち度はあると思います。

それは大きな問題です。どうぞ啓蒙活動をなさってください。

私が言いたいのは「作成者に罪はあるか?」ということではなくて「閲覧者に罪はあるか?」ということなのですが。以前のエントリーでインターネット初体験者を新生児に例えたのはそういう意図で。書いた本人にもわかりにくいですけども。

Re: IE はすっぴんの刑に処すべきか

商用サイトでは客に対する信用とかの問題から、IEでも整ったデザインにするという理屈は分かります。 例えば、Mozillaで問題のある商用サイトを見ると、私はその企業に対して不信感を持ちます。 このような状況になるのを避けたいと考えるのは企業として当然です。 しかし、個人サイトではデザインなんてただの自己満足です。 自己満足のために駄目だと分かっているブラウザにまで苦労して対応することは賢明なことなのでしょうか? 訪問者はデザインではなく内容でサイトを見るかどうか判断します。 ですから、対応範囲の決定はどうぞご自由に、と言えます。 ただし、IEのバグに文句を言いながらデザインをするぐらいなら、 IEでまで自己満足を満たす必要なんて全く無いじゃないかと言いたいわけです。

標準準拠の範囲でも IE に対応する術はあるでしょう。それを知っておきながら「でも IE はダメブラウザだから全然知ったこっちゃないね」という態度でも良いのですか?(私にとって、の話ですが)標準準拠の最新技術を駆使した標準準拠の素晴らしい HTML 文書は、現在私のサイトを楽しみながら閲覧してくださる多くの IE ユーザーを裏切ってまで手にしたいと思うほど魅力的なものではありません。

また、内容でサイトを見るかどうか判断する、というのは常に正しいとは限りません。カスイケリンク集 という 2ch のスレをまとめたサイトがありますが、そこからは恐らく内容以外のものを見に来る方がいるでしょう。ウチのサイトの CSS ファイルをまっさらにしたら、閲覧者が一割減るかも知れません。どこだったか「訪問者は第一印象を見た目で決める」とかいう統計の記事を読んだような(ZDNet? 詳細失念)。

Re: IE はすっぴんの刑に処すべきか

IEで問題のあるサイトはほとんど無い、しかし、Web標準仕様により従っているブラウザでは問題があることがある。 これによってIEのユーザは他のブラウザに乗り換える必要が無くなり、 Web標準仕様を利用する作成者はますますドツボにはまる。 ついでにMicrosoftもIEのレンダリングエンジンを改善することはできないし、しなくてもよくなってしまう。 このような悪循環からサイトの作者がどうやったら抜け出せるかと考えた場合に、 IEに対する妥協を減らすという選択肢しかありません。 長い目で見た場合にIEのために対応を入れることは愚行だと言えないでしょうか? それともあなたはこれを賢明だと考えているのですか?

IEに対する妥協を減らす前にやることがあるのではないですか?それこそ選択肢を知らされないまま(自覚できない理由で)インターネット初めまして、な IE ユーザーが被害を受けるとしたら?無知で無自覚なユーザーに全てのしわ寄せが行ってしまうのは不条理ではありませんか?

Re: IE はすっぴんの刑に処すべきか

例えば、無知からネットワークに関するセキュリティ対策をとらず(セキュリティパッチすらあてず)にワームをまき散らしている人を許容できるのですか?

問題の程度が全く違うように思われます。IE ユーザーはワームを撒き散らしますか?IE ユーザーに関わると不正なプログラムを埋め込まれますか?

Re: IE はすっぴんの刑に処すべきか

無知ならなんでも許されるという発想は大嫌いです。 無知なら無知なりのハンディキャップがあっても仕方ないと思います。

多くの IE ユーザーは恐らく、無知ではなく「未知」です(日本語として違和感があるかも知れませんが)。選択肢を知ってなお IE に留まるのであれば、それに起因するトラブルを抱えるのも本人の責任の上でしょう。先にも書きましたが、実行に移す段階よりも前にやるべきことがあります。

Re: IE はすっぴんの刑に処すべきか

その自由の結果が、その反対側の立場にいるサイトの作者の義務になるとは考えられません。 つまり、IEに対して、ブラウザのバグを利用するといった無理矢理な対応が、正しいかどうか以前にそうしなくてはいけないとは思えないのです。 ですから、無下に扱うことを正しくないことだとは思いません。

先のエントリーにも書きましたが、どうでもいいし好きにやってくださいというのが私の本音です。義務であるとも感じませんし、対応してはいけない義務があるとも感じません。無下に扱う正当な理由があると信念を持っていらっしゃるのであれば、どうぞそれを突き通してください。それでも私は諸事情から IE への対応を少なからず行うでしょうが。

立場上いろいろと大変であることは想像に難くありませんが、「あれもしなきゃいけない、これもしなきゃいけない」に終始する活動は楽しいのでしょうか。私は IE でも楽しめればそれでいい、という立場ですし、今すぐ標準準拠のために動かなければならない理由を知りません。標準準拠は現在の閲覧者の多くを切り捨ててまで実行するほどに魅力あるものなのですか?手段と目的が摩り替わっているように思えてなりません。

真面目に馬鹿を考える

たまに「普段どういうこと考えながら生活してるの?」と知り合いに真顔で聞かれたりするので自己分析などしてみる。ことにする。

普段どういうことを考えているか、といえばもうこれは真面目なことを考えているか馬鹿なことを考えているかの両極端であって、真面目なことといっても真面目に馬鹿なことをやるとか馬鹿なことを真面目に考えたりしているというだけであって、要するに馬鹿なことを考えているのだけれど、これはまさしく嘘つきのクレタ人のパラドックス的な要素を内包していると考えられるし、そもそもクレタ島がどこにあるのか思いを馳せると何故かモルジブの風景が脳裏に浮かんだりして、おかしいなクレタ島って島民が皆嘘つきなくらいだからもっと陰惨とした雰囲気のはずだぞとか自己問答したり、ここ数年モルジブを「モルディブ」と表記するけどなんか気取ってるなとか、そういえば週刊ファミ通なる雑誌のゲーム帝国なるコーナーで「ヴァ」は「バ」の気取ったやつだとかいうことが世間の常識であるかのように語られていて、「ヴァカ野郎」とか「カヴァチタレ」とか書かれていたなぁということを思い出すにつけ「ヴァンサンカン」という単語が脳裏をよぎるのだけれど、Google で「バンサンカン」を検索すると上位を占めるのは「ヴァンサンカン」ばかりであって、まさしく Google も気取った世代に移行しつつある発展途上期なのであって、これが世に言うパラダイムシフトかぁなどと恥ずかしいくらいに間違った知識をいかにも知識人の身振りと併せて披露するけれど、ネットでそういう身振りの表現は伝わりにくいから早く光主導の本格ブロードバンド時代が到来すれば株価も上昇すると思った。

ということを考えたりしてます。

個人的には投げ捨てるけれど

管理人が投げ捨てたスタンスであるからといって、閲覧者にも投げ捨てさせるのは横暴以外の何物でもない。というような。今すぐどうこうしなくてもいいだろうになぁ。

修正: Internet Explorer 使用者を熱湯で啓蒙

法律として定められたことを守らず、逆にルールを守ろうとしている人間に迷惑をかけている IE (NOT IE ユーザー) を犯罪者に、そして、ほとんどの IE ユーザーを、犯罪者の手の元にいる幼児に喩えましょう。

(中略)

しかし犯罪者は親の責任を果たさず、子供に世の中のことを何も教えようとしないばかりか、自分がやるべき仕事もしません。そんな彼らから幼児を半ば強制的に引き離し、絵本を読ませて差し上げませんか。今まで優しく撫でてくれていた人間にそれをされたことで泣きじゃくる幼児、そして憲法第一条への背徳感はあなたに重くのしかかるかもしれません。しかし、広い目で見れば、人道には背いていないと思います。

もう自分の意見は言うだけ言ったのでどうということはないのだけれど、どうにかして大義名分掲げて正当化しようとするから問題視されたり叩かれたりするのではないですかね。「僕は IE が嫌いです。頭が悪いので嫌いです。だから弾きます」これなら誰も文句を言いません。自サイトで何しようがどうぞご自由に、って具合に問題解決じゃないでしょうか。

力ずくで矯正させられた子供の作る未来なんて、犯罪者がのさばっている状況からどう進展しているのか想像が付きません。標準準拠という理想のために一部のユーザーを閲覧不可能な状態にする、理想と全く逆行する方法によってそれを築き上げて、後世の人はその歴史的事実を誇らしく思うでしょうか?汚点と認識するでしょうか?私にはそれがどうしても、個人のレベルを超えて行う価値のある活動であるようには感じられません。

結論 → 回帰

やっぱりどうでもいいし好きにやってくださいが結論であることは変わらず。それでもこんなエントリーを書くのは引用+言及されたり惰性だったりで。同じことを言い続けてる(つもりでいる)のであまり読む価値はありません。

というかこのところ引用ばっかりしてるけれど、もう少し効率的にわかりやすくどうにかする方法はないだろうか。全部まとめて引用しておいてから個々の文章に対して言及していけばいいのだろうけれど、わかりづらい。対応する文章をいちいち引用すれば良いのだけれど、面倒くさい。上手く Movable Type を使えていないからだろうけれど。というか限度を越えた長文向かないなこれ。

Re: IE と標準準拠ブラウザの折衷点

不毛じゃない議論ってあるんでしょうか(笑)

互いに妥協できる結論へ辿り着くために議論を繰り返すのであって、けれど今回の私と中野さんのやり取りは必要以上にしがらみに囚われているために、お互いが妥協し得る結論を導き出すことがとても面倒であることが容易に予想できるため不毛な予感と表現しました。他意はありません。

Re: IE と標準準拠ブラウザの折衷点

その言葉自体は異存ありませんが、デザインを捨てることは別に投げ捨てることにはならないと考えています。 HTMLにさえアクセスできれば閲覧者に対してcriticalな問題は無い訳で。 CSSを外さないとアクセスできないページをデザインしてしまうよりはすっぴんにする方が好ましいですし。

デザインにどの程度重きを置くか、という部分に大きく左右されると思います。もちろん HTML がしっかり書けてれば CSS はあっても無くても良いわけですが、極端な話「CSS だとこんなことができるよ」と CSS デザインを啓蒙するページにおいて、すっぴんというのは最終的な手段だと考えられます。CSSを外さないとアクセスできないページをデザインしてしまうよりは遥かにマシですが、選択しないで済むに越したことはありません。選択しないで済むに越したことがない選択肢を「特定の UA を使用しているから」という理由で問答無用に適応、というのは早計であるように思われます。

Re: IE と標準準拠ブラウザの折衷点

ええあります。しかし、同時に限度もあると思います。 ブラウザのバグを利用した解決策はとりあえずの問題回避になっても、将来的にはそうではありません。 例えばIEが子セレクタを無視することを利用し、ある問題を回避できたとしましょう。 もし、次期IEがセレクタのサポートだけを改善させるとどうなるでしょうか? ブラウザの設計から考えるとあり得ない話ではありません。 実際に描画を行っているTridentと、スタイルシステムは異なるソースに分割されているはずですので、十分にあり得ます。

次期IEがセレクタのサポートだけを改善させた途端に使い物にならなくなる CSS の記述を見直す、という選択肢もあるのではないでしょうか。状況に合わせて今ある物を適宜変更する、というのは本末転倒なやり方でしょうけれども、「仕様に従っている記述だから一切問題ない。対応していない IE に責任がある」と全て丸投げしてしまうのはどうでしょう。対応策を知らないが仕様は知っているからそれに従っている、というのと、対応策は知っているけれど仕様に従っているから見て見ぬ振りをする、というのでは大きな差があるように感じますし、現状のブラウザシェアを知っているのであれば……というのも言及するまでもなく。

Re: IE と標準準拠ブラウザの折衷点

当然、そのようなリンク集から来た人が常連になる可能性は否定できませんが、 見せかけの数値より本当に真剣に自分のコンテンツを見てくれる人がいてくれる方が私は嬉しいですね。

それはもちろんそうでしょう。けれど、閲覧者が何を求めて私のサイトを訪れるかについて、私は正確な調査を行ったことがありません。

ある方は CSS ファイルを覗きに来るのかも知れませんし、文章を読みに来る方もいるかも知れません。日記から私の身辺を監視する目的の人もいるかも知れません。アクセスログから推察することはできるでしょうが、何のファイルを参照したから何の目的で来ている、と断言はできないと考えます(じゃログなんて見なくてもいいだろって話になりかねませんが)。もしかしたら私のサイトを見ながら夕飯を食べる習慣の人がいるかも知れません。今まで使用していた CSS ファイルが変更になった途端食欲がなくなるかも知れません。

と、突飛な例えをしてみましたが(突飛過ぎて逆効果っぽい)、閲覧者が本当に中身のために訪れているのか見栄えのために訪れているのか、管理者が一方的に判断して大きな変化をもたらす行動に出るのはとてもリスクが大きいのです(しがない個人の運営サイトである場合も例外なく)。前述の通り、訪問者が激減する可能性もあるでしょう。私にはそんな勇気はありません。

Re: IE と標準準拠ブラウザの折衷点

ところで、あなたのサイト自体、WinIEとMozillaとでは違って見えていますが?(笑)

私なりの折衷案です。多少擬似要素を使った装飾を行っていますが、IE のみで閲覧しても問題がないよう調整してあります。IE をすっぴんにするより遥かにマシである、との個人的見解からそうしています(これが中野さんには理解できないのかも知れませんが)。

Re: IE と標準準拠ブラウザの折衷点

ちなみに私が初めてMozillaを使い出した当時は仕様書の存在すら知らなかった上、 がちがちのテーブルレイアウトで不思議マークアップをしていましたよ。 それがなんでかこんな状況になってます(笑)

だとしたらますます門前払いの非情さが理解しやすいと思うのですが。もし当時「テーブルレイアウトをする人間は Web サイトを運営する資格はない」と一方的に断罪されてしまっていたとしたら、今日の中野さんはいなかったことは想像に難くありません。何かを頭から排除してしまうことは、そこから産まれてくる新しい世代の芽を完全に摘み取ってしまう可能性を孕んでいます。IE からであろうと Mozilla からであろうと、例えば私のサイトを見て「CSS って何だ?」と興味を持つ人が現れる可能性はあるのではないでしょうか(自意識過剰気味ですが)。IE からの間違った芽など要らない、とおっしゃるのであれば、もう一度標準化について考察をされた方が良いかと思います。問題はどこからスタートするかでなく、どういう経過を辿ってどこにゴールを見据えるか、ではないでしょうかね。

具体例がないまま進めようとしているので多分根本的な意識にズレがあるのだと思いますが、IE に対してすっぴん対策を採ることのメリット・デメリットを考えれば「しないに越したことはない」が大方の意見であるでしょうし、もちろんすっぴんにリスク(訪問者の減少の可能性とか)が伴うからこのような結論に辿り着くわけですが。IE に対応させるために仕様に反した記述をするのは問題ですが、仕様に従った範囲で IE でも Mozilla でも程よく表示されてればそれで無問題ではないですか?仕様は最新のものに従い、最新の実装を行っているもののみが優先・優遇されるという不文律があるのであれば問題は全く違いますが、それこそ標準化に対して本末転倒な立場であることは触れるまでもなく。

# 読みにくい文章で済みません。寝起きでテンパってます。

FONT FONT FONT

相変わらずというか、インストールしては捨てインストールしては捨てというフォント漬けの生活をしていたりしていなかったりするわけですが。けれど特に造詣が深まっているわけではなく、いつまで経っても末端のいちユーザーでしかないのは成長がないのでダメだとは思いつつも。

士郎正宗「攻殻機動隊」講談社

何が望みだ?俗悪メディアに洗脳されながら種(ギム)をまかずに実(フクシ)を食べることか?興進国を犠牲にして。お前だってゴーストがあるだろ。脳だってついてる。電脳にもアクセスできる。未来を創れ。

はい。搾取ばっかしてます。

全然関係ないけど、Mafuyu さん がリニューアルして Inkburrow をロゴに使っているのを見つけて一人狂喜したりした。え、気持ち悪いですかこれ。もうダメっぽいですか。いや存分にダメですけども。

というか日本語 Google で Inkburrow 検索すると大変なことになってるな。

雨月物語

前から雨月物語が読みたくて文庫本を探していたのだけれど、なぜか岩波文庫だとばかり思い込んでいて見つからず悶々としていた。見つからないのは当たり前で、岩波文庫からは出版されていないから、という物凄く馬鹿馬鹿しい理由なのだけれど。で、今日本屋へ足を運んで文庫のコーナーをうろうろしていたら、講談社(講談社学術文庫)から上下巻に分けて出版されているのを見つけて、中身を確認することもなく購入した。正直、間違いだった。

青木正次 全訳注「雨月物語」四頁 講談社学術文庫

だから雨月物語の当面の書き手剪枝せんし畸人きじんというのは、より現実的におのおのの話にそくしてみれば、物語という各話共通の方法で次々に九つの物語を続けて語っていく、いわゆる「語り手」というものをさすことになる。剪枝畸人は自分の作品「今古きんこ恠談かいだん雨月物語」をでたらめなむだばなしだと言い切っているが、この語り手はそれは自分が作中の主人公とともに経験した怪奇かいきな現実で、「おそろしくあやしき語柄かたりぐさ」だとして物語っている。

一瞬国語能力に問題があるのかと思えるようなねじれたまえがきで嫌な予感はしたものの、肝心の内容はもっと酷かった。とりあえず長い間読みたくて仕方のなかった「吉備津の釜」だけ読んだのだけれど、他の話を読もうという気力が湧かない。

二段落置きごとに原文、現代語訳、語文注、考釈、の繰り返し。中身を確認しなかった自分が悪いのだけれど、こんなテンポの悪さで読み手が楽しめると思うのだろうか(楽しむことが主な目的でない本なのだろうけれど、それにしても流れぶった切り過ぎ)。現代語訳も中学・高校生が宿題でやってきました的ないかにも直訳で面白みの一切が排除されたような文体で、考釈の余分感も手伝って読む気をみるみるうちに削いでいった。とりあえず「吉備津の釜」は最後まで読んだけれど、本来あるべき読後感は不満のみで埋め尽くされて筆舌に尽くしがたいもの、としか表現できない。

これで 1,150 円。もう講談社学術文庫は買わないだろうし、青木正次氏の文章も進んで読むことはないだろうと思う。社会勉強代。

そもそも結論は今出すべきか

個人的にはもう何度も申し上げた通りどうでもいいなわけで、投げ捨てたがる管理人に「ちょっと待て」なんて言ったりもしませんよ、と。

ただ立場のようなものをはっきりさせておかなければならなかったなぁと考えるのは、Netscape4.xと同様にどうにも対応できないぐらいならすっぴんにしてしまえというつもりという点を明言しなかった点(紛らわしい表現だったことを中野さん自身が認めてますが、確認しなかった・読み取れなかった点で私にも責任はあるわけですが)で。窓から投げ捨てるという発言から派生したやり取りであるとずっと認識していたために読み違えていた部分もあったり。

で、中野さん個人が IE に対してすっぴん対策を採る、という信念をお持ちであるならそれに依存を唱えるつもりはありません。IE を投げ捨てるも投げ捨てないも各管理人の自由であるし、閲覧者にとって実害(読める読めない、というレベルでの害)がないのであれば「へーまっさらなサイトだね」なんて感想を抱いてそこまでであるわけで。

それを踏まえた上で、というか最早言葉遊びの領域な気がしてるんですが。

Re: 結論 → 回帰

今までは、無料でダウンロードできるInternetExplorerで最新バージョンの確認ができましたが、 今後は一台につき、(XPと同じラインナップ、価格であるとするなら)安くても1万円、 Professionalを使用している私のような人間なら3万円かけてアップグレードしなくてはいけません。

(中略)

即座に乗り換えれない人はその選択肢をとるべきでは無いと考えています。 状況は今までとは大きく違っています。

タイトルの疑問点へ戻るわけですが、結論は今出すべきであって対策は今行うべきでしょうか?今対策を行えば Longhorn リリース時点でより多くの非 IE ユーザーが生まれる可能性があることは理解できますが、Longhorn のリリース予定は2005年末か2006年初めであるとされています(もしかしたら古い情報かも知れませんが)。Longhorn での次期 IE と WinXP までの現行 IE6 との差異に新たなトラブルが生じる可能性があるために付け焼刃な対策を採るべきではなく、根本的な改善を求めての啓蒙活動を行うべきだ、ということだと解釈したのですが、少なくともあと一年半先の問題に対して、Mozilla や Opera への積極的な誘致などの段階を飛ばして今すぐ IE に対して強行策を採るべきでしょうか。

Re: 結論 → 回帰

私が今回の論争のきっかけを作ったのは、文句を言いながら無理矢理な対応をするぐらいなら、 どうせデザインを見て楽しむユーザなんて居ないんだから気にするなよ、ということです。 何も無条件にサイトから排除しろと言ってるわけではありません。 ただし、IEに対する無理矢理な養護は愚行であると言っただけです。

嫌よ嫌よも好きのうちというか、実際に IE への対応を嘆いている管理人でもその実楽しみながら思考錯誤している方はいらっしゃるのではないでしょうか。デザインと仕様と表示の差異を考慮して折り合いを付けるのは快感である、と考える人は少なくないのでは。完全に推測ですしどうでもいいことですが。

と書きながらふと気になったのですが、IE6 をどうしてもすっぴんにしなければならない致命的な欠陥ってあるんですかね?今まで IE で表示確認・あるいはネットサーフィン(死語)していて「うわ、IE だと全然何もできねぇよ」というサイトに巡り合ったことがないのですが(もちろん多くが IE を基準に作られたからでしょうけれど)。その致命的な状況が想像できないためにすっぴんへの抵抗感が先行しているような気もしてきました。

あと、物凄く些細なことですがついでに。

阪神ファン

中野さんを応援する。 頑張れ。 仮にシェア最下位だろうと正しいものは正しいはず。それに本名(だと思う)ので信用する(笑)。。。

期待に添えず申し訳ないのですが、私生まれたときから本名はイソムラと申します。独自ドメイン取得時に個人情報を登録・公開してますので、もしよろしければそちらを参照してください。

本名を名乗っているかどうかが信頼に足るかどうかの条件であるなんてちょっとアレかなぁとは思いつつ。一応宣言。

本当に怖いこと

怖さの基準は人それぞれですけれども。

心霊ビデオ集

どちらかといえば怖いというよりは笑える映像でした。心霊ビデオを「有り得ない」という前提で観てはダメですね。あるはずのないものが映っている、あるいはあるはずのものが消えているといった現実からかけ離れた不自然さが強いほど(より心霊ビデオ・写真らしいほど)滑稽に思えてしまいます。
逆にテーマパークのお化け屋敷は苦手です。心霊ビデオや写真と違ってお化け屋敷はお客を怖がらせる仕掛けやスタッフが確かにそこにあって(突然に)脅かしてくるのでどうも駄目。

多分自分と正反対の感覚なのだろうなぁ、と思うのですが、私はホラー映画やお化け屋敷なんかを笑ってしまう側の人間です。ホラー映画の撮影現場で物凄い形相を作る役者や、「脅かそう脅かそう」と物陰に隠れているバイトの人なんかを想像すると面白いなぁ、と。「呪ってやる」なんて雄叫びを上げながら客を追いかける幽霊に扮したテーマパーク従業員が仕事後帰宅して夕飯を食べるところだとか想像するともう。

逆に心霊写真や心霊動画を怖いと思うのは、そこへ登場するキャストの考えが全く読み取れないからで。何かの弾みで死んでもなお写真やビデオカメラに写りたがる(多くの場合そういうことにされてるのでそう考えてますが)意図が全くわからないから怖いのです。一番目立つ場所に出てくることもしなかったり、写りたいの?写りたくないの?写ってどうしたいの?と、そこがわからないから不思議で、時に恐ろしく思うわけです。

長々と書きましたが、一番怖いのは普段何気なく接する人たちです。生きてる人は自分に実害を目に見える形で及ぼし得るし、当然多くは何を考えているのか不明です。全くもって生きている人間というのは恐ろしいものです。社会不適合者とか言うな。

ファンタジーに対する考察に対する考察

物凄く論理的で有意義な文章から参照を受けつつも、能力的な問題からろくな文章を返せないので部分的な言及のみにとどまったりする自己防衛手段。

創作者と読み手の間隙にある創作物

正直言って、私も単なるファンタジーっぽいというだけの話は好きではない。ファンタジーをイメージすると、何故か鎧を着た人や中世の西洋的な剣が出てくる。読者に見せよう(魅せよう)という意識があればどこかは設定を捻り倒したり組み立てたり壊したりする。あまり考える事をせず、自分だけが楽しいと感じるような創作物はどうなんだろう、と考え込んでしまう。

恐らく多くのファンタジー創作者は、その共通観念がどこに基盤を持っているものかということすら想像しないのでしょう。以前のエントリー黎明期のコンシューマゲーム機におけるロール・プレイング・ゲームをプレイした世代だからなどと表現しましたが、この刷り込みにも似た経験を自分の創作意欲の根源と結び付けて考えられる人は(彼らが現役である以上)ほとんど居ないと思います。

自身のファンタジー世界に対する先入観を意識できないでいるから、同じ原体験を持つ人間以外とはその世界を共有できないでいる。結果、不備のある世界を中途半端に構築し、足りない部分は無意識のうちに自分の原体験での世界観で補ってしまう。DQ・FF の世界観・価値観ありきと表現したのはつまりそのことで。彼らの多くは自分の世界に何が足りないかを意識できないでいるし、その足りない何かを無意識のうちに補っている自分、あるいは無意識のうちに補ってくれる読者がいることを知らずに創作を続けているように思います。

どうしてネットでのファンタジー創作者をとりまく状況がこのようになっているのか、についてはいくつか原因があると思われます。

ひとつは、ある世代があまりに多くの共通体験を持ってしまっていること。例えば二十年前、家庭にテレビゲームが広く普及したことであるとか、例えば数年前、指輪物語が映像化されて多くの観客を魅了したことであるとか。おかげで言葉足らずな創作物を読者は勝手に脳内補完してくれるし、その点読者も意識できないままであるから指摘もされずにいるし、で。
ひとつは、真皓さんも指摘されているように、創作物というのはどんなものでも否定できそうで否定できないモノであるということ。どのような程度のものであれ、それが個人の固有のものであるならば(とりあえず表面上そうなっていれば)それだけで存在を許されてしまう可能性が大きいものであるということ。またそれに相乗効果をもたらす要因がインターネットの特性でもあるわけですが。良いもの(良いとされるもの)は爆発的に広がるけれど、悪いもの(程度が低いと判断されるもの)が駆逐されることは滅多にありません。誰でも気軽に「ホームページ」を無料で(ほとんどノーリスクで)持つことが可能な現在、毒にも薬にもならないものは放置されるのみで、それの程度が低いという理由だけで抹消されることはほとんどないでしょう(例えばどこかのランキングで最下位ってなことになっても一時的に一部の人間から嘲笑の目で見られる程度なわけで)。淘汰されないまま存在を許され続ける中で、向上心を自発的に得ることが稀であることは容易に想像できます。

とひとつひとつ挙げていきながら、より簡潔かつストレートに表現された文章をふと思い出したので引用してみます。

虚構日記 Es-7 夢の終わり

本当の言葉を書くためにはな、世界と人間を理解しなきゃダメなんだよ。少なくとも、世界と人間を理解しようと思わなきゃなんねえんだよ。それを、さかしげに人類史や世界や、そういった巨大な流れから切り離された個人の感情だけで言葉を語りやがって。俺たちゃ、お互いみんな違うように見える。けど、少し踏み込んだら、みんな同じなんだ。そして、もう一つその奥では、やっぱり全然違うんだよ、俺たちは。この人間理解の道程をもたどらず、最初に感じる世界への違和感にだけ拘泥した愚かしさで、誰か自分以外の人間に届いてしまうかもしれないここで、言葉を吐こうなんて少しでも思うんじゃねえ!

余談ですが、世界を知らない一般人 でも述べた通り、虚構の世界へ逃避できる保証があって初めて逃避するのだと考えています。なので、現実逃避からファンタジーが作られるのだとすればという仮定はやや違和感を覚えます。彼らが現状、現実逃避しながらファンタジーなるものを創作しているとしても、ファンタジーという受け皿がなければ彼らは現実逃避などしなかったのではないでしょうか。これはまた別の話になりますが。

何かに曇ってませんか

「あれは駄目なものだから、知識があり経験があり将来について正当なビジョンを持っている私が、あれのお世話になっている連中を助け出してやらなければならない」
「今まで何度もそうするチャンスがあったのに、それをしないことで少なからず見て見ぬ振りをしていた自分を棚に上げて、諸悪の根源は全て、ひとつの巨大な組織と知識を持たない初心者にあると?」
「未来のためには一時的に初心者が被害を受けることも仕方がない。こうすることが彼らの将来にとっても良いことであるのは明白だし、私たちが望んでいるものにも近付けるはずなのだから」
「そのために何も知らない初心者を新しい餌で釣る?以前に諸悪の根源である組織がそうしたように、今度はあなたがそうする?彼らは結局何も知らないまま、ただ居る場所をこちらが変えさせて、それで全ての問題は解決する?」
「そうするしかないだろう。雛は無罪だがこのまま放っておくわけにはいかない。雛がより良く生きていけるより良い世界を作るために、今こうすることには正当な理由がある。あれから雛を遠ざけることは、結果的に雛のためになる」
「雛はそれを望む?そうなると雛は幸せ?雛を幸せにする世界を作るために雛の頬を叩いて目を覚まさせる?あなたがやろうとしていることは必要悪の名を借りた私刑ではないと、あるいは全て終わった後でそれは間違いではなかったと、あなたは常に証明し続ける覚悟がありますか」

一方的な力によって状況を変える場合、力を行使する人間は常に中立で公正な立場に居なければならない。そうでなければその状況改変は誰のためのものであるか、なんてくだらない議論を何度も繰り返さなければならなくなるし(実際そうであることは多いけれど)、全てが終わった後に「あれは間違いだったんじゃないだろうか?」なんてことになっても取り返しがつくとは限らない。

私には、哀さんが中立で公正な立場に居るとはとても思えません。それと気付かないうちに曇りガラスの向こう側に立っているように見えます。そもそも IE が Web 制作において害になるのであれば、まず啓蒙されるべきは制作者サイドではないのでしょうか?何故一番初めに閲覧者にしわ寄せが行くことになるのでしょうか?閲覧者を啓蒙すればそこに含まれる制作者も啓蒙される、良い鶏が良い卵を産み、良い卵からは良い鶏が孵る、という主張こそが不毛であると考えます。卵が先か鶏が先か、それは個々人が都合良く解釈してしまうものだからです。半強制的な誘導は大義名分を傘に着た暴力でしかありません。

どうしてそうあるべきなのか十分な理解を得る、という段階をすっ飛ばしてIE は今すぐ窓から投げ捨てろ半強制的な誘導をするのであれば、それは二次的なインプリンティングでしかありません。それとも、刷り込みに刷り込みを重ねて標準化されるのが正しい在り方なのですか。誰のための標準化で、何のための標準化なのでしょうか。

11:25 追記
雛を良い成鳥へと導くという表現がどうにも引っかかるのですが、先駆者は後逸を頭から爪先まで面倒見てやらなければならない、というのは傲慢であり勘違いであると思います。彼らにだって判断するための能力が備わっていないはずがありません。過保護すぎる親に育てられた子供は幸せになれるでしょうか。

二〇〇四年 五月十二日
3:33 追記
なんだか勘違いされているように読み取れるので、余計な世話だと思いながらも指摘してみる。

Comment: iwaim

手段が問題視されていることは勿論了解しておりますが、この記事の内容をみんな (誰) が承知しているとは思っていません。この記事へのレスとしてまず啓蒙されるべきは制作者サイドではないのでしょうか? と述べる方もいらっしゃるくらいです。出来ればもう一度読み直して頂くかして、ここで再確認する必要があると思います。

iwaim さんの指摘されたみんな (誰)というのは一連の記事を読んでいるみんなであって、私が啓蒙されるべきは制作者サイドと表現した方々とは層が異なるのではないかと思います。一連の記事を読みコメントされる方々は啓蒙の必要なく現状をよく理解されていると思われますし。Web 制作に関わっているけれど IE を取り巻くこの手の問題を全然知らない方だっているわけですし、何よりその中で今回の一連の流れを全く知らない方には、この提案とそれに対する議論と、今後取られるであろう措置が全く意味を持たないものになると考えられます。彼らもまた未知の状態である初心者には変わりないけれど、Web 制作に関わるという点からただのいち閲覧者より話が通じやすいはずだし、何より彼ら(Web 制作に関わり始めた人たち)を啓蒙することがレベルの底上げになり事態の改善につながると考えたからこそ、哀さんは友人らを啓蒙する活動を行っているのではないのですか?

続・雨月物語

前回 雨月物語 というエントリーで講談社学術文庫の「雨月物語」(全訳注 青木正次)を購入したことを物凄く後悔したことを遺憾なくぶっちゃけたのだけれど、もしかして、とちょっと嫌な予感とともに 青空文庫 を探してみた。青空文庫内にはなかったけれど、雨月物語全巻を公開しているというリンク先を見つけた。見つけてしまった。

で、見たら何か全部画像。本当に原本。達筆。書道の勉強もしなきゃ多分読めない。「これが雨月物語です」って、間違ってはいないんだけれど、多くの人が求めるものとは多分違うなぁとか、検索でたどりついたらがっかりしないかなぁとか。

以前 中原中也の詩を XHTML 化した ようにテキスト化して置いておこうかと思ったりもしたのだけれど(当然著作権も死後数百年経ってるので問題ないわけで)、どこからどこまでが上田秋成の書いた本文で、どれとどれが青木氏の訳注なのかわからなかったりする現状。市の図書館で原本っぽいのを借りてきて照合してみるか。いやいやそこまでする気力ないだろ普通に。とか。葛藤。

堀川を清流に

割と地元だけど全然知りませんでした。

物凄く人情味溢れた泣ける話。二年前、堀川浄化のための署名運動などを行っていた山中さくらさん(当時二十歳)がウィルス性心筋炎で亡くなった。今年三月、彼女の中学時代の同級生らが彼女の意思を継ぎ、「堀川清桜会」を結束した。というのが概要。山中さんの堀川に対する思いもさることながら、同級生らの彼女に対する思いというものも素晴らしい。それも彼女の人柄があってのことだろうと思う。

という人たちと同じ年齢の私なわけですが、今やってることったら無駄に消費して無駄な生産を行うことばかりで、山中さんどころかその同級生にも足向けて眠られない存在というか最早別の生き物レベルの社会性の差があるわけで、なんていうか、駆除された方が良さそうですね。なるべく早めに。誰か駆除してくれ。

長い長い URL

URI でなくて URL を使うなんて、とかそういう突っ込みみたいな捉え方のできる指摘という名の一方通行的コミュニケーションはさておき。

長いけど、何の必要があって誰が使うんですかね?需要が不明なまま供給に踏み切った典型的な例つまり先走っちゃった IT 事業という名のハッスル組ですねみたいな。みたいな。人生においてこれほど他人に必要とされなさそうなことに真剣に打ち込む人がいるということを知るということは、誰しもがこの世に存在する価値を持ち得るという救いであり、誰もが持っているはずの価値というものが対象によって酷く変動し時には価値がなかった方がつまり生まれてこなかった方が良かったのではないかと強く嘆く絶望であり、なんかそんな感じです。

ぶっちゃけ来週には忘れてるだろうな、とか思ったのでメモとか。

19:42 追記
グッズ まで販売してやがんの。くあぁ。

いやちょっと待てよ、これひょっとして今トレンド?ナウい?ひょっとして時代に必要とされてないのはこのサイトではなくて……あああああ。そんなはずがない。やめろ、存在意義が揺らぐ。アイデンティティーが!パーソナリティーが!音を立てて崩れるよドラえもん!

眠いし寝ます。

自己認識というか分析

ジュンさん とのメッセで判明したこと。

  • 会話による進行が多い
  • シチュエーション(妄想)が程良くアレ
  • 年月が重要なエッセンスを占めている
  • 取り返しのつかない恋愛における喪失の経験
  • エロ
  • とりあえず量が多い
  • 性的に不適切なテイスト
  • 妄想と日常に潜む罠
  • 文章における個性と裸晒しの比較
  • ダークに突っ走るべき
  • エロ
  • 熱、温度差、調理方法、調理技術
  • 並行した世界
  • 紙媒体に印刷、ネットでの流し読みとの差異
  • 童貞喪失をテーマに何か書く
  • エロ

monologue の話です。初期衝動の熱さとか、そこから冷めたときに何で補うのかとか、いろいろ考えるきっかけになりました。後でまた多分ログ読み返したり。

IRC いつ繋いでる?

なんとなく 本家スラッシュドット 眺めてて、アンケート(スラッシュドットジャパン にもあります)が IRC いつ繋いでる? みたいな感じだったので非 IRC ユーザーながら興味深く読んでみた。そしたらなんかふいをつかれて笑ってしまった。

Re:Back in the day, there were no girls

That reminds me of a quote I once heard:
"Welcome to IRC where men are men, women are men and little girls are FBI agents"

スラッシュドットジャパンにも面白い人は多い(ような気がする)のだけれど、向こうの人はなんかこう、ネジ一本抜けてるような格の違いがあるような気が。

アクセスを解析するよ

見知らぬ URL からのアクセスがあったりすると何やら自分に対する巨大な悪意があったりしたらどうしようなどと三文小説かそれとも小学校低学年程度の児童向けの戦隊特撮番組における自意識の滑稽なほどに肥大したヒロインのような心持ちで逆探知かつアクセスするのですが、というのは八割程度嘘ですが、それにしても何故あのような番組におけるヒロイン的存在というか所詮小学校低学年程度の児童向けの戦隊特撮番組であるわけですからヒロインの名を冠していても色気どころか美貌すらもないのは仕方のないことだと考えられますが、せめてキャスティングにおいて親の願望、あるいは子供に対する期待という名の大人たちのどす黒い陰謀などとは無縁に、撮影監督には本心からヒロインにふさわしい子役を選んで欲しいと切に願う。負けるな監督!戦隊特撮番組を守れ!

そんなもんこれっぽっちも興味ないからいいんですが。

話を元に戻すと、本サイトを閲覧する際に生じるトラフィックつまりアクセスを分析解読すなわち解析することによってどのような嗜好の閲覧者が訪れているかを調査し更新内容に反映することが閲覧者にとって有意義な時間を提供することにもつながり自己研鑽に役立つというか多分そういう感じなんですが、解析してて気付いたっていうか。まぁ解析は機械がやってくれるから、あくびしながら今日一日どうやって無駄に過ごそうか考えながら眺めるくらいしかやることはないのだけれど。

本来真面目にコンテンツらしきものを設けて外部に公開発信していた俗に言う本サイト、と言っても本妻という言葉は全然関係ないというか、そういう感じの monologue よりも本当に暇潰しに Movable Type 設置しただけの 404 の方がより閲覧者にとって動向が気になるみたいなそういうニュアンスの存在になりつつあると解釈するところの管理人である私ですが、要するにこれはゲリラ的に文章をだらだら発信し続ける方はとりあえず更新あったら見とくから、そうでない方はせいぜい一日に一回くらいは見るからまぁいいか、とかそういうスタンスでありポーズであると解釈したら楽になれると思った。自分が。

あと全然問題ないというか問題はないんですけど気になるというか、オンライン小説宣伝掲示板:現代 というところから数日に一回程度のアクセスがあるのですが、オンライン小説宣伝掲示板なるところへの宣伝ないし布教活動的な行動には一切身に覚えがなく、また解析を辿って多少ログを流し読みしたところで自サイトへのリンクは貼られておらず、特定のブラウザで起こるリファラの誤爆みたいなものであるかなぁなどと考えるのが妥当なところではありますが、誰かが勝手に宣伝するもののその後すぐに何か思い直して削除などしているのだとか考えたら愉快だし嬉し恥ずかしく胸ときめくのでそれでいいことにして解決とします。

っていうかアンテナ登録されてる方はかなりの確率でがっかりされると思いますが、このウェブログというアレはこういう方向性です(選択を誤ったな、という悪者の不適な笑みで)。

12:09 追記
monologue の方は旧アドレスでアンテナ登録してる人もいた。

もじら組の人と問題発言とか

全然部外者なので btm さんと kazhik さんのウェブログを読むくらいしか状況把握の方法がないような立ち位置であるわけですが(ML のリンク踏んでも参加者じゃないから見れないっぽい)、なんていうか、すげーなぁ、とか。

今回の経緯

当時、自分が関わっていたもじら組のウェブテストプロジェクトが終了し、それを元に現在の Web標準普及プロジェクトに繋がるような時に小池さんは とんでもない発言をしています。

「W3C 勧告に従え。」と「Mozilla で見れるようにしろ。」は同じことです。

なんていうか、多分ご本人は全く気付いていないのだろうけれど、Mozilla を IE とか Windows に変えると MicroSoft とソックリな傲慢な態度になったりしてちょっと面白いです。

っていうか、

今回の経緯

それから10日の暴走してる発言があり、その私的なやりとりで中野さん、僕が誤解があるなら解いてくれという旨を伝えています。また、staff MLでもとある方が問題を取り上げていて、なにかしらアクションがあるだろうと思っていました。ところが昨日、

<#mozillazine-jp:kazhik> 私も関わる気は毛頭ありません。あまりにもバカらしいので。

こんな発言をしたのを見て、怒りを通り越して絶望を感じました。(今でもこの発言を見ると心が痛みます。)事態の収拾させる意志がないという表明にしか見えません。あまりに酷すぎ...

関わる気は毛頭ありませんって、最初にご自身が首突っ込んでいわゆる 過激な発言 をしたから今回のようなことになっているんだろうに、関わる気は毛頭ありませんというのは「本来こちらにそういう意図はなかったのだから問題視されても困る」っていうポーズなんですかね。

2ch の Mozilla スレッドだったか Firefox スレッドだったかで、「もじら組が Mozilla の普及の一番の障害になっている」って書き込み見て謂れのない中傷か何かかなぁなどと思っていたものの、今回の kazhik さんの対応見てると関わりたくなくなるだろうなぁと少し納得。発言の責任を持つだとか他人に転嫁するなだとか、その気がないなら発言なんかしなければ、とか。やっぱり バカの壁 読むか。

カテゴリどうにかしよう

いい加減アバウトなカテゴリをどうにかしたいなとか思ったりもするのだけれど、読み返しても何書いてるのかよくわからない文章が多いし、そもそもいつの間にか 300 も無駄に書いているので読み返すのも面倒だし、だったらいっそ「Muda」とかいうカテゴリを作ったらいいんじゃないかとか、でもそれをしてしまうと本当にもうどうしようもない生産行為をさらに重ねそうでもう自分が耐え切れないというか、だったらやめればいいんだけど、本能というか。

カテゴリ分けに関して Tips とかあったらどなたかご教授ください。何もかもガイドラインを必要とするマニュアル人間。あだ名は「取説」。嘘。「Uso」ってカテゴリも要るな。もう無理。

機器危機

学校にノート PC 持っていって使って、その後ゼミの飲み会に行ったらアホみたいに雨が降って、おかげで PC の液晶パネルかどこかに水が入り込んだもよう。勝手にグラデーションとか付いてたりする。ああああああ。画面付けっぱなしにしといたら熱で蒸発しないだろうか。しないだろうな。したらしたでまた別の問題が起こりそうだ。ああああああ。

新しい PC 欲しい。

7:02 追記
画面いっぱいに青いラインが出たりするようになりました。終末的様相。

7:23 追記
たまに直ります。つい「頑張れ頑張れ」と PC に話しかけてしまう自分に気付いて鬱になります。

7:25 追記
復帰した(多分)!これで次回電源切って再起動しようとしたら動かない、なんてことになったら本当に笑えないな。表示がおかしいだけで入出力は大丈夫みたいだから多分大丈夫だろうけど。根拠?一切ありません。

7:35 追記
状況は予断を許しません。

コメント → トラックバック → テキストサイト

コメント欄はちょっとした突っ込みやら誤字・脱字の指摘なんかにはちょうど良いサイズだなぁと考えたりするわけですが。

blogツールのコメント欄

ぼくはあまりに旧式な人間で、blogのコメント欄がどうしてもなじめない。たとえば今までなら、掲示板というコメントを専門としたものをおくことで、話題をそれほど限定せずに、縦横無尽にさまざまなことに言及したり馴れ合ったりしていたものだが、blogツールの普及により、そういう過度な接触ができなくなったと思うのだ。言及されたものへの言及という、よく言えば秩序だった、悪く言えばとてもつまらないものになったと思う。

今後ますます blog というものが浸透していったなら、コメント欄の必要性はどんどん薄れるのではないかと思います。誰かの文章に対して何かしら物言いがある場合、コメント欄に書き込んだりせず自分のサイトに記事を書いて、相手の該当する記事へトラックバックする(あるいはただ引用だけで済ませるかも知れませんが)、というような形態になるのでは。というか、そうなって欲しい。ならないかな。なるといいな。

というかこれは以前からあるテキストサイトの形態だなぁと気付いたり(まさしく加納さんのサイトだったり)、結局のところ根本的な部分では大騒ぎするほどの変化は起こっていないのかなぁなどと考えたり。

あー。PC がヤバイ のと居酒屋にメガネを忘れて遠地の友人が預かったままという状況がひたすらに焦燥心をかきたてるので、いつにも増して中途半端な文章しか書けない。ダメだ。ダメダメだ。ぐずぐずだ。

個人サイトというカテゴリ

個人サイトとは何ぞや?ということをぼんやりと考える。

というか、ある程度量的・質的に成熟したサイト(ファイル数・サイズ、周囲への認知度、運営期間、基準はいろいろ)に新しくコンテンツを加えることって、何だか抵抗ありませんか。長い間その構成で続けてきたサイトが順当に計画通りに少しずつ成長していって、もしかしたら現在の状態がはちきれる寸前の水風船みたいなものかも知れない、とか。成長の度合いだとかそういうものによって感じるところは違うのでしょうけれども。

例えば monologue は創作短編小説サイトなわけですが、内部でカテゴリが Same Old Story と Other Stories と Project K というものに分かれています。これには当然明確な違いがあり、Same Old Story はメルモで発行しているメールマガジンのログ、Project K は企画「プロジェクト K」へ参加したもの、Other Stories はそれ以外の短編という具合で。

その他のコンテンツとしてはまぁありがちながら日記、掲示板、リンク、ってなもんですが、もうひとつ Appendix というものがあって、これはその名の通り他に収まらない適当なものを適当に置いておく、というつもりで設置したもので。リニューアルごとにスクリーンショット置いたりとかをしているのですが。これがちょっとどうかなという状態なのですが、ここに 20 とちょっと置いてある While away the time というファイルがあるのですが、日本語にすると「ヒマ潰し」みたいな意味らしいですが、これ、別にこれだけでサイト作ってもいいんじゃないかくらいの。というか。みたいな。

えー、忘れないうちに書いとくと、新しいコンテンツとして加えるか?それとも新しいサイトを作ってしまうか?という葛藤が、ある程度成熟したサイトを運営している人にはあるのではないかと思ったりしたわけです。いっぱいになってる水風船にうっかり水入れすぎてバランスも何もなくなるくらいなら、みたいな。幸か不幸か、今使ってるレンタルサーバは「容量ある限りいくらでもサブドメイン使ってもらって構わんよ」みたいなスタンスらしいし。あー。どうだこれ。どうなんだ。

国民総ウェブログ計画

いやぁもう時代は IT ですから、ブロードバンドで光ですから!なんていう知性の欠片もみられないような発言はともかく(どこだったかの官僚が宴会の席で口走った、とか読んだ覚えが)。

コメント欄の必要性

それでは自分のサイトを持ってなければ意見する場が無くなるんじゃないかな。

Blog ツールは(ほぼ標準で)コメント機能とトラックバック機能を持ってるけど、私はどちらかというとコメントの方が必要性が高いんじゃないかなと。どこぞの Blog 紹介サイトで見たけど、 Blog と呼ばれるものは主にコミュニケーションを重要視しているのではないかと。

コミュニケーションを重要視するのであれば、トラックバック → サイト見に来る → 他の記事も読む、なんていう感じの思考になるような気もします。別の記事も読めよ、なんて態度は迷惑なだけですけども。

前回のエントリーそうなって欲しいと書いたのはやがて来たるインターネット戦国時代を駆け抜けるであろう世代たちへ先駆者として何か残してやれる財産というものを検討した結果こんな胡散臭い格言にもならないリソース = ゴミであってゴミ問題を後の世代に押し付けるとはいつの間にかすっかり汚れてしまった自分にほとほと絶望する夜半、ていうか引用部分からここまで嘘 = ゴミで(以下ループ)。先駆者などと偉そうに表現しているけれどその実先に使用していただけという。先行利用者。

えー、つまり、ポジティブな意見でもネガティブな意見でもそれなりに責任を伴うことを実感していて欲しいというか。当然ながらその発言を目にして感嘆する人もいれば不愉快になる人もいたりで(トラックバックに限定した話でなくて、当然コメント欄でも同じことが言えるわけですが)。「文句があったら俺も記事書いてるからこっちにトラックバックせんかい!」ってな意気込みだったりするといいなぁ、とか。暑苦しいですけど。コメントスパム的な「言い捨て」も難しいかなとか。

※ ただ前段階が物凄くたくさん必要で、例えばトラックバックスパムなんかを「このサイトからのトラックバックは無視」なんて出来る機能とか(もちろんその機能を作ったがためにも問題は発生するだろうし)、本当に関連がある記事か?ってとこをいちいち人力で確認も難しいだろうし、キーワードで拾うのもなぁ、とか。頭が悪いのでそこらへんはわかりませんけどね(ダメすぎ)!

あと、前回のエントリー で思いっ切り書き忘れてたんですが、私も比較的古い人間だったりするので「雑談掲示板」みたいなものがあると安堵を覚えたりもします。コメント欄はその記事へのコメントが気軽にできますけれども、「リニューアルして良くなったよ!」とか「サイト内のリンクミスってるよ!」みたいなことは書きにくいかなぁとか、という発言を許された場がないと意見できない引っ込み思案な部分があるので。

コメント欄の必要性

自分のサイトを持ってない人もいる

先生、時代は IT ですから!国民総光通信(以下略)。

実際どれくらい普及するんでしょうかね。自前もレンタルもひっくるめて。あるいは現行のレンタル日記サービス(エンピツとか)なんかにトラックバック的な機能が付いたりはしないのでしょうか。割とメリットはあるかと思います。当然ながらにデメリットもありますが。

もう今日は本当に中途半端な文章しか書けません。いつにも増し。スミマセン。

21:32 追記
ポジティブな意見でもネガティブな意見でもそれなりに責任を伴う → インターネットは決して anonymous でノーリスクな世界ではないことをまず意識してから利用するべきであるとか、偽名だし身元明かしてないから多少攻撃的な発言しても大丈夫とかそういうことでは全然ないよとか、決してコメント欄がそのような影響を及ぼしているとは考えませんが、コメントスパム(一言宣伝とか)をすればするほど自分の印象を悪くしているだけであるとかそういうことを書きたいのですが、全然文章が浮かんでこないのでいい加減な表現になってます。

21:35 追記
気軽な発言が悪いということでも決してなくて、むしろ気軽に発言して欲しいというか、気軽に声をかけてくださいというか、お友達になってくださいというか、そういうアレなんですが、インターネットと言えど親しき中にも礼儀ありな社会であって欲しいというか。雑談掲示板なるものでは何の話題でも気軽に振ってよ!みたいな姿勢でいたいなぁとか。

書けば書くほど墓穴掘る感じだな。ゴミっぽい文章。

調べものを忘れる

何も調べものに限った話ではないけれど、いくつかの動作を間に挟むと本来の目的をさっぱり忘れてしまうことがある。酷いことに。物忘れが器質的な障害に起因する場合「健忘症」という医学診断名がつくらしいことはどこかで読み聞きしていたのだけれど、それがどういうものか調べるのをずっと忘れていたのを思い出して調べてみた。

健忘症/物忘れ/記憶障害

(健忘症) 「物忘れ」:記憶障害の1つ。 
●自分がしたことを忘れる症状。
1.逆行健忘retrograde Amnesie
2.前向健忘anterograde Amnesie
3.コルサコフ症候群 
●「記憶は以下の3つの要素から成り立っています。
<1>新しい情報を知覚し、脳裏に刻み込む「記銘」
<2>記銘したものを心の中に持ち続ける「保持」
<3>保持されたものを再び意識の上に浮かび上がらせる「追想」or「想起」
●「健忘症はそのうち「追想」の障害で起こる。そして忘れる範囲によって、自分がどこの誰であるか分からない、出生から以降のすべてを忘れてしまう「全健忘(全生活史健忘)」と、部分的に忘れる「部分健忘」がある。

追記。引用長いな。

確か映画「メメント」で主人公レニー(ガイ・ピアース)は頭部への打撃を受けて前向性健忘症(前向健忘anterograde Amnesie?)という設定だったと思うのだけれど。このサイトによれば健忘症は思い出す部分に障害がある、ということでちょっと驚く。記銘に障害があるのかな、という印象だったりしたので。言われてみれば確かに思い出せないから「集中しろ、メモするんだ」なんてつぶやきまくってたんだろうなとか解釈もできますねっていうか映画というエンターテイメントからそのような専門的かつディープな知識を得た気分になるのは止した方がいいというのは明白であってというか。もはや映画感想エントリー。

そういえばブラックジャックでも健忘症をテーマにした話(太平洋戦争中に頭に傷を負って健忘症になった男がゴロツキに脅される話)があったけれど、あっちはより正確な雰囲気であるなぁさすが手塚医学博士というかそもそもあれは覚えていたことを思い出せない(まさしく追想障害がある状態)であって「メメント」でレニーが新しいことを覚えられない(思い出せない)でいた前向性健忘症なるものとは根本的に違うものかなぁとか、今度短期記憶とか長期記憶とかも調べようと思ったことをここに書いておかないと忘れそうなので書いておきますとか。でも多分忘れる。

上記ふたつは本当に健忘症でお悩みの方がいらっしゃったら「ふざけるなっ!」と怒鳴られてしまいそうというか、怒鳴られて軽く涙目になったりでもすればいいと思いました。「私ボーダーなの~♪」とかいう日記を書いてる方とかメンタルヘルス系の人ってどうも「私可哀想、私病気、私可哀想」なんて空気を身にまとって同情を誘うことに余念がないよね、という会話を同級生の女の子とした覚えがあることを思い出しました。

言葉のマジックっていうか

日本語の長所あるいは短所として「曖昧な解釈を可能にする語尾」というものが広く蔓延していると思いますが、みたいな。

「イヤガラセ」騒動について

「イヤガラセ」の中身を問いただすのではなく、「イヤガラセ」という単語に条件反射する意見ばかりだったのには正直うんざりした。

漫画家施川ユウキ(「がんばれ酢めし疑獄!!」作者。サイト できてた)がどこだったかのコラムで「罰ゲームは『ゲーム』という言葉で語感を濁らせてはいるが、間違いなくあれはただの罰である。言葉のマジックに騙されてはいけない」的なことを書いていた覚えがあるのだけれど、それと同じ原理で「○○的□□」という表現を行ってしまえば、後で揚げ足とられても「いやぁそれはあんたの拡大解釈だよ、大げさだなぁ」なんて逃げ仰せることも可能なわけで。

「合法的イヤガラセ」であっても嫌がらせは嫌がらせであって、それが持つ許されざる本質を合法的といういかにも誰であろうと許容してしまう範囲のことであるかのように装飾することで最初っから逃げ道を作ろうなニュアンスの発言であったのかも知れませんが。言質取られちゃうような立場であればもっと配慮するべきっていうか。みたいな内容の意見です。語感弱めまくり。

笑顔のマジック

マジックっていうか。

X51.ANAL

+ Iftk!
同一人物

鬼気迫る表情と笑顔のギャップにやられるファンというかそういう人たちも多いのではないのかなぁという思いとかっていうかここに何書かれてるのか全然わかんないのですが何語でしょうか。単語くらい判別できるようになった方がいいんでしょうか。

アクサンとかが付いてるアルファベットってどうやって発音するんですかね。二年半ドイツ語履修してた(不本意ながら)人間の発言とはとても思えませんが。

ホラーにおけるリアリティの必要性

加藤晴彦出演の和製ホラー映画「回路」をケーブルテレビ局か何かそういうアレで観て思ったことなどを書いてみる。

以前 アホみたいなエントリー を書いてホラーをプッシュしてみたりしたのだけれど、これは主に海外でのホラー事情と考えることができる。日本のホラーにおいてラブストーリーも SF もモンスターもサイエンスも青春も、何でもありなんてことはまずない。いやラブストーリーとかはあるかも知れないけど。モンスターもあるかも知れない。サイエンスはちょっと微妙。SF は多分ないだろうな。だからこれは国外のことでした。そういうことにしてください。

で、昨今のちょっとブームかも知れない勢いの邦画ホラーにおいて重要なポイントはやはり、普通の日常 → ちょっと事件 → 異常な事態、という少しずつズレてゆく流れを楽しみつつ最終的には映画の終わった時点で「いやぁこんな流れになるなんてなぁ」などと振り返ってみることもトレンドの一環であるかと思えるわけですが、とここまで書いてみて「いや案外貞子的な畏怖の対象があればそれで満足なんじゃないか?」との疑問点も高々と頭をもたげ、いやしかしそれでも映画開始二十秒後にそんな怪物じみたものが現れたところで大して怖くはないだろうし、その怪物性を活かすためにはやはり普通の日常とのギャップが重要なファクターだろう、と思い直したり。

というわけで冒頭に戻るわけですが、「回路」もそのような流れ(普通の日常 → ちょっと事件 → 異常な事態)を踏襲したホラーのひとつであると言えます。が、導入部にやや不満というか、「普通の日常」でない部分がやや強く「異常な事態」とのギャップを描き出すことに失敗している感が強いのが残念でした。共通感覚として持っているものをわざわざ映画の中で表現することもない、という向きもあるでしょうが、例えば三年後くらいに文化的に大きな変革が起こらないとも限らないので、その年代世代に依存しきったような日常をアテにするのはあまり良くないと言えるでしょう。無意識のうちに補ってくれる観客がいなければ駄作、いれば佳作、ってな事態に期待するのは間が抜けています。

非日常が魅力的でもそればっかりだったら退屈するのも目に見えているわけだし、そのための前振りである日常を上手く描写できていなかったために何だかなぁなんてことになるのはとても勿体ないことです。「回路」の場合は彼ら・彼女らの行動パターンがとても非合理的で共感とかそれ以前の段階のものであるように感じました。どこか遠い国の文化を眺めているような。仕事仲間が目の前で首吊ったのに、「田口くんのこと?」と問いかけておいて「忘れなよ」なんて慰め方をするとても無神経な女性って今時多いんですかっていうか名前田口だったっけ?
いやそうじゃなくて、最初の植物園のシーンで「良くないことが起こってる気がする」なんて安っぽい台詞で非日常を手早く演出しようと安い試みに出たことが見事に滑ってっていうかあれって植物園なんですか?
いやそれより何より、どこにでもいる一般人としての位置づけであるところのジュンコや曽田だか曽根だかそんな名前の彼なんかがあまりに大根役者っぽくて全然こんなやつ身近に考えられるわけないじゃんていうか多分役者自身がホラーを意識しすぎて「怖い雰囲気を出しながら演技しよう演技しよう」とか気負いすぎている点が多分良くないのであってホラーの前半はもう青春ドラマ並みの頭の悪さでもって強引に進めた方がきっと楽しめるわけだし、怖いけど観たいなんて本能的な部分での欲求はストーリー盛り上がれば嫌でも出てくるわけだからどんどん普通普通してればいいっていうかでも怖いシーンでは怖い顔しろよっていうか携帯見たときのその表情はさすがにあり得ねえだろうっていうかだからもううわー(以下略)。

オニムラとラムニー君

ひょんなことから漫画家施川ユウキ氏のサイトを見つけた。見つけたというかそういうつもりは全然なくて、「しかわってどういう字書くんだっけな。一発変換できないや。ええい検索してしまえ、ファンサイトでも引っかかるだろ」というあまりに自堕落でダメな理由だったのだけれども。

壁紙があったので即 オニムララムニー君 をダウンロード。使うかどうか、は、まぁとりあえずそこへ置いておいて。いやまぁまぁ、いいじゃないか、そんなに結論を急がなくても。今壁紙に指定しなくても、明日壁紙に指定しているかも知れないじゃないか。な?ん?ん?良いではないか良いでは(以下略)。

というか、施川氏の語り口が十五年来の友人に似ていて面白い。面白いというのは滑稽であるといういわゆる funny 的な意味でなく、興味深いといういわゆる interesting 的な、てか日本語のニュアンスを英語で表現しようと試みるようなことはやめようと思いました。

映画の下手な観方

昨日映画「Dawn of the dead」を観てきたのだけれど、終演後にとてもアレな会話を小耳に挟んでしまってちょっと微妙な気分になった。

「まんまバイオハザードのパクリじゃん」
「あんな終わり方意味ないじゃん」

他人様がその映画に対してどのような感想を抱こうともそれは当人の自由であるのでどうとは言わないのだけれど、いや言わないのであれば思うだけでこんなエントリーを書かないのだけれど、だから今から言うのだけれど、単刀直入に申し上げると、想像力や感受性が足りなすぎて映画を十分に楽しめていない(理解しきれていない)という印象しか持てないという。

※ ややネタバレを含むかも知れません。

そもそも本作がロメロ監督の名作の リメイクである ということは割と有名というか先行情報として宣伝に使われていたと思うのだけれど、それを知らなかったとしても「バイオハザードのパクリ」という発言は酷い。

決してバイオハザードというゲーム(映画の方?)を軽視するつもりはないし面白いと思うけれど、あれがいわゆる「ゾンビ」の始祖的位置づけであるような解釈は滑稽としか言いようがない。スプラッターやホラーが好きな人でなければロメロという名前には全然聞き覚えがないかも知れないが、「死霊のはらわた」や「ゾンビ」という映画が七十年代に大ヒットしているし、さらに有名なところでは「エルム街の悪夢」のフレディや「13日の金曜日」のジェイソンだってアンデッド(≒ゾンビ)だ。「霊幻道士」などのキョンシーだってそんなものだし。死者が何らかの力で動き出して人々を惨殺しようとする、というのは三十年近く前から続く王道的なものであるし、それが数年前に飛躍的に性能を上げた当時のコンシューマ機に「バイオハザード」や「サイレントヒル」(プレイしたことないけど確かそんな感じ)として表現されたにすぎないのであって、何も「バイオハザード」というゲームがゾンビたるイメージの全てを生み出したわけではない。むしろ七十年代にロメロ監督が作成した「ゾンビ」シリーズによってそれのイメージが定着し、多種のメディアに変換されていったと考える方が至極自然である。
当然「バイオハザード」にもそのエッセンスは色濃く受け継がれている。ゾンビが緩慢な動きで人間を襲う、ゾンビに襲われたものは同じくゾンビとなる(この点「バイオハザード」はその名の通り、人災としてウィルスが蔓延したのだという設定になっていたように思う)、何よりその舞台が閉鎖的な建物がベースとなっているのはホラーの伝統である「逃げ場のない」という臨場感を生み出すための演出に添っているのではないだろうか(ゲームとしての制約も当然あるのだろうけれど)。

ロメロ監督が生み出した「ゾンビ」のイメージを踏襲した作品「バイオハザード」が、ロメロ監督自身の作品のリメイクである本作「Dawn of the dead」にパクられているという考えは理解しがたい。もちろん「バイオハザード」の視覚的効果や映像技術からいくらかの影響は受けているだろうけれど、それをパクリと表現するのであれば「マトリックス」は「アビス」のパクリにだってなるだろう。「スーパーマン」のパクリであるかも知れない。もしかしたら「ローマの休日」のパクリであるかも知れない。ラブシーンなんかが。

事前情報がなければ楽しめない映画が良いものであるわけではないし、実際本作はそんなもの無くても全然楽しめるのだけれど、実際そうやって楽しんだものを自身の少ない体験から(発言ひとつで映画にどれだけ興味を持っていないか洞察されてしまうこともあるってことですよ)「○○の模倣作品である」などとくだらない決め打ちをすることは物凄く程度が低いことだし、それを終演直後に友人らに「オレってホラー関連詳しいから。あれってバイオハザードだろ?」なんて吹聴するような行為は滑稽であるので控えた方が良い。こんな風にブログのネタにされてしまうよ。

「あんな終わり方」という発言に関しては思うところが人によって違うだろうけれど、ハッピーエンドであればそれで良いのだというのは浅いのではないだろうか。例えば映画のために創造された人間にだって「ハッピーエンド以降の生活」があるのだろうから、映画が終わった時点でハッピーであれば人生丸ごとハッピーになって穏やかに余生を送れるというのはちょっと想像力が足りないように思う。
「映画なんだから終演後にそいつの人生は続かないだろ」という冷酷な意見に対しては、「二時間弱で終わってしまうキャラクターの人生に何を求めてる?」としか。作り物をただ作り物として受け止めているだけであれば千円も二千円も払って映画館に足を運ぶのは無駄でしかないように思う。ただ感動させられるためにそんなにもお金を払うのであれば、もっと想像力と感受性を豊かにした方が幸せに生きられるよ。と。

映画の上手な選び方

はてなダイアリーがトラックバックを送れるものだとは知らなかった。

映畫批評

あれってバイオハザードだろ?と言つて恥を知らない彼は、たしかに映畫の見方が下手といふのもあるだらう。けれども、スノッブめかした批評をして滿悦してゐるやうならば、なんのことはない、ただ自意識がないだけなのだ。ゴダールの映畫を見て議論するのと、ホラーや純愛映畫を見て議論するのは、程度があまりに違ひすぎる。

ちょっと関係のない話をしますが、昨今微妙に盛り上がっているかのように思われることの多いホラーは、実はとても追い詰められた現状にあるのではないかと考えられます。興行収入が全然ダメ、ということではなく、ジャンルとして既に臨界点に達しているのです。

「でもホラー流行ってるだろう」というご意見もありましょうが、昨今流行っているのは「心理的な」ホラーであり、純粋に七十年代から続く正統派ホラーのファンは恐らくやりきれない思いをしていることでしょう。そんな知り合い一人もいないので憶測でしかありませんが。

「リング」や「シックス・センス」などの、直接的な痛い映像描写を行わない映画が流行っています。先に述べた心理的ホラーとでも呼べるタイプの映画でしょう。この手の映画の一番怖い点は、登場人物が自然ないち市民であることや、導入部での日常性が自分のそれと大差ないように感じられる点から、見えない何かが迫って来るような恐怖、真綿で首を絞められるような状況へ叩き落されるその落差であると言えるでしょう(参考 : ホラーにおけるリアリティの必要性)。もしかしたら自分にも起こるかも知れない、という強迫観念めいたものから、映画館からの帰り道、必要以上に車のドアミラーをチェックする自分に気が付くこともあるでしょう。
それに対して先に表現した正統派ホラーというのは、より描写や被害が直接的であり、例えばロメロ監督の作品のように死んだはずの人間や狂人に内臓食べられちゃう、とか、「エルム街の悪夢」のように連続惨殺事件が起こるだとか(大抵殺される過程を可能な限りリアルに追求する)、より直接的に迫ってくる何かを可能な限り恐怖感を煽りつつ映像化していきます。このため自室で不審な物音が聞こえたときなど、そこに誰かが潜んでいるのでは、という恐怖にかられたりするようです。

前者と後者の明確な違いは、誤解を招きつつもわかりやすい例として挙げるならば「誰かが死ぬときに血しぶきが上がるか?」という点を見ると良いでしょう。
心理的ホラーとしてサスペンスに数歩歩み寄った前者群は、「死ぬかも知れない・精神が破綻するまで追い詰められるかも知れない」という過程を描く段階に最大のポイントを置くため、大抵は何者かに殺されるシーンは曖昧に描かれています。死の直前まで怖がらせるような描写は続きますが(幽霊が自分を睨んでるとか)死自体は簡略化されて描かれるか、別のシーンに移り変わったところで死が明らかになるなどの演出が行われます。前者群において死はその結果が重要視され、登場人物の誰かが死ぬ・精神的に崩壊してしまい廃人となる事実があればそれで十分なのです。そこからまた新しい恐怖を煽る演出は映画によって異なるところですが、例えば「リング」では死に方は恐怖に溢れているけれど一瞬の出来事で、残された人物にとって重要なのは「自分も死ぬかも知れない」という、簡略化するならば生から死への状態変化が自分にとって脅威であるわけです。そこにある感情は家族など遺される者への思いであったり、単純に生への執着であったり様々ですが。
逆にスプラッターなどと形容される後者群は、死そのものを描くことが重大なイベントであり、どんな脇役であっても最期のシーンは大きな見せ場であったりします。死には強烈な痛みや苦しみが伴い(生きたまま食べられるだとか、切り刻まれて苦しみながら死んでいくとか)、時間・バリエーション・進行の緩急など映画の制約上許される限り残虐なシーンが描写され続けたりします。死は痛みであり苦しみであり、逃げ惑う主人公は「怪物が存在し自分を追う恐怖」ではなく「怪物が自分に死(あるいは痛み)を与える可能性に対する恐怖」から行動を起こすでしょう。多くはシンプルに恐怖や凄惨な殺害方法を描くことを重視し、前後関係はほとんど簡略化されているものも少なくありません。心理的ホラーと違って怪物どもは本能で登場人物たちを襲い、登場人物たちの取り得る行動は「呪いの原因を突き止めそれを解く(リング)」などといった悠長なものではなく、目の前にいる不気味な連中を打倒して逃走経路を確保するなどのより原始的で本能に近いものです。

ここで大きく話を戻しますが、ホラー(正統派の方)は現在ジャンルとして臨界点に達しています。多くの観客は凄惨なシーンであろうとそれに慣れてしまい、より生々しく・よりリアルに、を目標として特殊メイクを極めたスプラッタームービーも数打つ間に衝撃が薄れ、「よくわからないけど多分豚の内臓とかぶちまけてる」と冷静に分析される始末です。「人間が傍目に見てて一番痛く感じるのはどういう描写か?」という命題で進化し続けてきたホラーは停滞し、本来あるべき性質であった「人間が怖いと感じるのは一体どういったものか?」という点から現在の心理的なホラーへと移行することになりました。怪力を持つジェイソンや残虐なフレディはコンビを組まないと映画が作れないといった事態に陥り、不死の怪物という体外思想的なモンスターから、生前酷い仕打ちを受け死後復讐するというサマラや貞子のような体内思想的存在へ恐怖の対象が移りました。悪魔と幽霊の差異という点では、西洋思想から東洋思想へ遷移したといっても良いでしょう。ともかく、どれだけ人々を残虐に殺せるか競い合った正統派ホラーは鳴りを潜め、どれだけ人々を怖がらせるか(殺すことは二の次)を競う心理的ホラーがそれに取って代わりました。正統派ホラーは既に限界を超えた地点にあり、今回取り上げた「Dawn of the dead」がいくら興行収入をあげようと、それ以降に正統派ホラーが続くべき道は作られてはいないのです。

と、長々と書いておいて最初の引用とエントリータイトルに戻りますが、このような臨界点を迎えてしまったジャンルにいつまでもしがみつく連中(当然自分を含む)はそれを承知のうえで映画館に足を運ぶのだという前提を持っているものだと思い込んでいた点が誤りであり、ふたつ隣の席に一人で座っている推定四十代のおっさんが自分と同じ思いであろうと、前の席で三~四人連れでわいわいやってた二十代の方々がこのようなわけのわからない郷愁にとらわれて往年のリメイク作品を観に来るはずもなく、ただ販促の一貫としてキーワードになっていた「シックスセンスを越える~」や「全米~」などといったアレが彼らを呼び寄せたのであって、十年も前に終わってしまったジャンルに今や文化のようなものすら求めている時代遅れの連中とナウでトレンドに映画を観る彼らの間に色々な隔たりがあることは至極当然であり、というか書いてて段々憂鬱になってきたけれども焦点は定まらなくなってきたり。ホラーでここまで長い文章書くことになるとは思わなんだ。

えーと、映画をエンターテイメントとして捉えても面白いけれど、文学性があったりしたら(文学性ってもこの場合ホラーの美学とかそういうアレですが)もっと面白いんじゃないだろうか、だとしたらエンターテイメント派はそれなりに映画を選ぶと無邪気に楽しめるよ、ということを胸に抱いて書き始めたエントリーが現在過去のホラー論になってしまい読んでる方々には申し訳ない。というか引用全然本文に使えてない。ちょっと関係のない話で最後まで通してしまった。残念。

3D ダンジョニズム

携帯電話のアプリで Wizardry 狂王の試練場(Proving Grounds of the Mad Overlord)プレイしたりとか PC で Wizardry Chronicle プレイしたりとかで、また極端に 3D ダンジョン中心な生活をしたりしているわけですが。

思えば初めて 3D ダンジョンのゲームをプレイしたのは FC 版ウルティマで、多分 SFC 版真・女神転生だろうなぁという自分会議での大方の予想を覆したりするわけですが、つまりどういうことかというと、真・女神転生じゃないかと思ってたんだけどよくよく思い返したらウルティマプレイしてたよ、ってことです。自分会議が何か詳しく知りたい人はすごいよ!マサルさんに書いてあったと思うのでそっちを読んでください。

それにしても懐かしいなウルティマ。3D ダンジョンとかいう概念持ってなかったし、真っ暗だったから全然ダンジョン潜る気にならなかった。ていうか食料なくなるのが怖くて遠出できなかった。最初食料切れでどんどん体力が減っていったときは「何かの病気(ステータス異常)か?」とか思ってバリアの向こうにいる医者のとこまで行ったけど「あー元気だね」とか言われて心底凹んだ覚えがある。バリアで仲間半生半死。というか FC 版のソフトは多分説明書つき箱なし中古 800 円で買ったのだけれど、中古ゲーム屋で「これください」と指差して言ったら箱つき 900 円を売られそうになったんだった。すげーどうでもいい思い出がざくざくと。

まぁそんなこんなで今ではすっかり 3D ダンジョン中毒気味なところがあるわけですが、中学の頃は DOOM に酔って気付けに梅干食べたりしたなぁそういえば。無敵状態になって徒手空拳で敵を壁に叩き付けたりしてた。あと海外ゲーつながりで思い出したけどソードオブソダンは酷かった。ノーモーションでポーション飲んで即横になって腹から血流したり、見えない落とし穴に躊躇してたら明らかに敵に道ふさがれてやむなく落ちたり。あとウィザードオブイモータルっていうクォータービューのアレなゲームがあってそれもなかなかに厳しかったっていうか。ゲーム関連で腐るほど思い出が。かれこれ十五年ほどの付き合いですから。

似ていると言われた

メールで知り合いから「森山未来に似てない?」などと問い合わせがあり、森山未来って誰?とか返信しつつイメージ検索。困ったときは Google がネットエイジであるところの僕らのアーバンスタイル。嘘。

似ているのか似ていないのかとても微妙なライン。似ていると思われていることもあるかも知れないし、似ていると思われていないこともあるかも知れない。似ていると思われていないことは似ていないと思われていることと同じことのように思えるけれど、似ていると思われていないことと似ていないと思われていることは必ずしも同義ではないっていうかそれはどうでもいいか。ラムズフェルド国防長官的なよくわからない文章を書こうとして失敗する試み。

なんだか 森山未來同盟 というようなアレもあるけれど、もしかしたらこの人たちにはモテたりするかも知れませんね。モテるかも知れないこととモテないかも知れないことは(以下略)。

メッセ。

イソムラ の発言 :
http://www.miraikakumei.com/w_k/index.html
xxx の発言 :
うーーん
xxx の発言 :
似てなくはないけど、似てない
イソムラ の発言 :
http://www.miraikakumei.com/w_k/prof/prof.html
イソムラ の発言 :
目付きとか
xxx の発言 :
顔の系統は同じだろうけど、私は似てるとは思わんなぁ
xxx の発言 :
かと言って似てなくもないけど
イソムラ の発言 :
また微妙なアレですね
xxx の発言 :
別の写真とかテレビで見たりとかだと似てるのかも
イソムラ の発言 :
ふむ
xxx の発言 :
あ、プロフィールの写真だとちょっと似てるかも
イソムラ の発言 :
ほほう

微妙な。

モチベーションを高める

どうにもやる気が出ないときなんかは以前にいただいた励ましのメール(というほど大げさなものでもないけれど)などを読んでいるのだけれど、その中でちょっと「ん?」てな表現を見つけた(決してそのメールをくださった方がどうというアレではなくて)。

感想の強制・・・

・・・・・・絶句。
書かれてたのが、「読み逃げ上等」とか「読んで感想を掲示板に書き込まないのはマナー違反」だとか。要約してません。原文まま。

へぇ。ほぉ。世の中そんな習慣のある地域もあるんですかね。読み逃げ。面白い表現だ。

散々書いていることと重複する部分が多いので割愛するけれど、ネット上にテキストをアップロードする行為が目的であるのか手段であるのか、そこのところがごちゃ混ぜになっているような世代であるような気がするような。誰に頼まれたわけでも嫌がられるわけでもなく自分の意思で公共の場へアップロードしたのだから、それを読もうが読むまいが感想を書くまいが自由であって、塀の向こうから自分とこの庭の桜を見てる人に「感想言えよ」って滑稽じゃありませんかという。桜が嫌だったら娘とかでいいや。道行く人に「うちの娘どう?綺麗?感想言えよ」って滑稽じゃありませんかっていうかしつこいと逮捕されちゃうかも知れない。

むしろ何も言わずに立ち去るのは(ためになるかどうか、はともかく)思いやりなんじゃないですかね。面と向かって「つまんねぇよ」って言われたらどんなに気丈な子でも泣いちゃうじゃない。誰も泣かせたくないじゃない。だから男は黙って立ち去るのですよ。物凄い頭の悪そうな文章(実際悪い)書く自分に勝手に涙しそうになるとかそういうのはともかく。

永谷園に牛耳られる

小腹が空いたのでお茶漬け食べてたんですが。

永谷園 さけ茶づけ(パッケージ裏)

隈取りミニ知識

隈取(くまど)りは歌舞伎特有のメーキャップ方法です。種類は約50ともいわれ、上図は暫(しばらく)の隈取りです。
隈取りは永谷園の登録商標です。

隈取りは永谷園の登録商標ってことは、歌舞伎界隈の人は公演ごとに永谷園にお金を払ってるんですかね。永谷園に牛耳られる日本の伝統的芸能。まさか。

やや Strict 体質

ある人といくつか HTML ファイルを共有して加工してあれこれして公開して、みたいなことに関わる機会があったのだけれど、なんかこう、しっくりこないっていうか、なんか、こう、居心地の悪いとまでは言わないけれど、しっくりこないっていうか。

DTD に則した記述であればいわゆるレガシーマークアップであっても全然問題ないのだけれど、管理者というか編集者の労力やらコストパフォーマンスやら要するに手間隙考えればそっちの方が楽っちゃ楽だし効率いいっちゃいいかも知れないのだけれど。それでも一度構造化のオイシイ部分を知ってしまったからには自然とそういう書き方をする癖がついてしまって、そうしないことの意義が「管理者の労力云々」では勿体ないなーとしか。その気になれば正規表現使って置換とかすれば簡単に一括変換できるわけだし、そういう手段を模索しないのはやっぱり怠慢なんじゃないかなぁとかそういう色々が渦々と。

というか、それを本人に言わずここへぐだぐだぶちまける辺り割と第三者的に関わりたがっている自分というか。彼らを説き伏せることのメリットがいまいち見つからないとか。ね。

OS → XP Pro

学校のね。Win 98 とかだったのが一斉に入れ替わってました。で、なぜか ダンカン さんのメニュー(?)っていうか告知みたいな部分が半透明になってて、「うわ IE がアルファチャンネル対応したのか?」とか思ったんですが 404 は全然半透明じゃありませんでした。何なんでしょうかね。

自宅に戻ってから件のサイトを再確認したんですが半透明になどなっていませんでした。他にももう一つ半透明になってるサイトがあった気がするけど忘れた。何なんでしょうかね。共に IE6 SP2 なんですけどね。

あと、PC の部屋にある注意書きが面白かった。

張り紙

それ以外で、テンプレートがどうのこうの と出たときは、保存しない とか キャンセルしてください

Word の使い方を説明しているのだけれども、もうちょっと言い方があるだろうに。っていうかなんで Word は 98 のまま?どっちかっつうとこっちをどうにかして欲しいんですが。

眼鏡の時代

だそうですよ。今さら感ややありますが。

で、どうってわけじゃないんですけどね。自分がどのタイプの眼鏡か迷ってみたらいいんじゃないかと思います。

あと、木暮公延は 秀才メガネ っていうより 脇役メガネ じゃないかと思うのですが、脇役メガネのラインナップがあまりにアレだったのでやっぱり秀才メガネでいいと思いました。というかアレですね、複数の要素を併せ持つメガネとかいますよね。あと 駄メガネ にオンナスキーが挙げられてるのもちょっと違和感がありました。

悩みの種

えー、小説っぽいものを書いたりしているわけですが、名前を決めるのが物凄い苦手で、毎回毎回どうしたものかと頭を悩ませたりなんかしてみたりしています。一度どこかの掲示板だったかで「こういう感じのアレを作ってはくれませんか」とふてぶてしいお願いをして VBScript でちょっとしたプログラムを作ってもらったりしたのですが、そもそもそれは下地になる素材が必要なプログラムだったので現在動かしてなかったり。説明が中途半端だと何のことやらさっぱりだけどまぁいいや。

そんなこんなで名前が決まっていません。決まらないまま書いて後で一括置換とかすると実に色気がないので、早めに決めないと書けないので困っています。別に誰も被害にあうわけではないし自分としても何ら困ることはないのですが。困っているべき状況にあるのかも知れませんみたいな。身動きできませんみたいな。

そんな感じなので、「俺の名前使えや」なんていう漢気溢れた御人を探しております。見つからなかったら自分でなんとかします。じゃ自分でなんとかしろって話ですよね。よし。心を入れ替えてなんとかします。終了。

悩みの種 → 名前の種

創作の小噺における名前をどう決めたらいいんだろう?という話。

Name

私はもつと非効率的なやり方をしてゐますが。以下私のやり方。

  1. 五十音順にありさうな名前を発音して行く
  2. その中から良いと思へるものがあればピックアップして紙に書く
  3. ピックアップした中から、更に字面を見て、きれいなものを選ぶ

といふ感じです。どうです、ものすごくアホくさいでせう。

この記事によって加納さんに若干の M っ気があるのだという事実が白日の下に晒されたわけですが、実はこのやり方を何度も何度も繰り返すと 前回のエントリー で書いた下地になる素材が必要なプログラムの下地になってくれる可能性があると思ったりしたので追記。

それがどういうプログラムかというと、

  1. 任意のテキストファイルから、ランダムに名前をピックアップ
  2. 任意のテキストファイルから、ランダムに苗字をピックアップ
  3. 男性か女性かを選択し、組み合わせて名前として表示する

というものなわけで。最初に引用したようなやり方で名前を決めて(設定して)いけば、やがて自分が想定もしなかった組み合わせの名前を作ってくれるという。その気になれば無限に拡張可能、みたいな。無駄に拡張思考だった当時(結局使い切れてないし)。

多分一年くらい前にどこかの掲示板で「作ってくれ!」とお願いしたのだということは 前回のエントリー にて既出のことですが、これって公開してしまっても良いのですかね。いや、公開するまでもなく「そんなプログラム十五分で書ける」って人も少なからずいるようなシンプルなプログラム(十行!)なのですが。作者の人の身元も知らないしなぁ。どうなんだろう。

余談ですが、日本中の名前を網羅してやろうとファイルを探しに探したら、女の子の名前を網羅するプロジェクトみたいなのがあって、イボンヌなんて名前の女の子がいるそうですよっていうか。多分帰国子女なのだろうけれども。うすた京介ネタ!とか一瞬でも思ってしまったことを後悔して止まないとかそういう。

ウサダーが当たりました

前回のキャンペーンで目玉が飛び出す気色悪いキーホルダーが当たったのだけれど、今度はしゃべるやつが当たったようで、これも負けじと気色悪い気がする。

前回のキャンペーンで当たった目玉の飛び出すキーホルダー、木工用ボンドを固めたようなものを頭に詰めてあって、顔を指で押すと目玉が飛び出す仕組みになっているのだけれど、届いたときからちょっと不良品っぽくて今現在は後頭部の中身を詰めるのに使われたであろうフタのあたりからはみ出てるっていうかもう豪快に飛び出ているのでますます気色悪い。どこにやったかな。

水族館選挙

微笑ましい。

水族館一人気者の座めぐり選挙 茨城・大洗

◇候補者は「恐怖党」のサメ、「フンボル党」のペンギンなど8頭。「優しいだけじゃ駄目なんだ!」(サメ)などのスローガンを掲げ、20歳未満の「有権者」に支持を訴える。

こんなスローガンで票集めといて恐怖政治でも始めたらたまったもんじゃないですけどね!っていうかそもそも政治とは一切関係ないですけどね!

酸っぱいのは人生も同じく

週末に実家に帰ったら母が「梅干持ってく?凄い酸っぱいやつしかないけど」などと言っており「何言ってんだよ梅干なんて皆酸っぱいじゃん酸っぱくないやつなんて甘味料の塊とかじゃんあんなもの少女漫画で甘い夢見てる連中が食べればいいんだよ主食レベルの頻度で」と心にもないことを心に浮かべたりはしませんでしたが、結局その噂によると物凄く酸っぱくて尋常ではないという梅干なる伝統工芸品レベルの愛着を伴われるべき日本の心みたいな何かそういうニュアンスのアレを持って帰ったのですが、今食べたら本当に酸っぱくて変なもの食べさせられた犬が咳き込むみたいにケホケホ言いながら涙目になったりしてるのですがケホケホって何か毛むくじゃらの可愛い感を醸し出す生き物であるような語感を与えたりしていますが咳き込んだ様子を表す場合に使われることの多い擬音語だか擬態語だかそういうアレですけれど擬態っていうとどうしても昆虫が昆虫を捕らえて頭からグロテスクを絵に描いたように貪り食うつまり生存のために捕食するその行為のために花などに化ける行為を思い出すとともに「え~わっかんな~い」とか知能レベルの低そうな感を持たせることで天然キャラを演じ辛く厳しい芸能界でも生き残ろうとする必死なというかもうむしろ決死な乙女の名に最も似つかわしくない乙女を獲得するところの元子役俳優すなわち現グラビアアイドル未来のヌードモデル候補であるところのミスマガジンとかミスヤングなんたらとかそういうアレの最も似合う女になることを目標とした彼女らの生態における事細かな動作一挙手一投足にこそ擬態なる言葉の真理が隠されているのではないかと思う昨今、小倉優子のブログすなわち OGUYU とか見てたらっていうか今初めて見たんだけどともかく見てたらなんだか盛んに非芸能人と交流しているかのような様子で何かしら書かれているけれどどうせ全部出来レースだろうし一般人には万里の長城より突破の困難なっていうか万里の長城は割と簡単に突破されてるんだけどともかく何かそういう越え難い壁みたいなものがあるのだろうけれどつまり結局は小市民にとって全然無縁の存在であるから今日も普通に梅干とかでご飯を食べます。

ペルソナ・ノングラータ

午後十時過ぎに二人組みらしき連中が「ライターを借りる」とか言い合いながらうちの部屋の窓枠を殴りつけたりしてたみたいです。のた打ち回って苦しめ愚民が。なんてね。ね☆

「ペルソナ・ノングラータ」という言葉を「招かれざる客」とか誤解して記憶していたのだけれど、今ふと何の気はなしに検索してみたら全然違った。

アラブ・アフガンとオサマ・ビン・ラディン

「ペルソナ・ノングラータ(好ましからざる人物)」

ムネオ、加藤紘一の復活は絶望的?

「ペルソナ・ノングラータ」(テロリストやスパイなど、外交上、好ましからざる人物の意)

「疾風(はやて)のように現れて」--匿名とカッコ良さ

「ペルソナ・ノングラータ(困ったちゃん)」

言いたいことも言えないこんな世の中で愉快に物事を解釈する三番目の人がとても平和的で素敵だと思います。ポイズン。

メモるよ

ちょっと思いつきの話のネタとかをメモるよ。ネタバレとか心配というかそういう人は見ない方がいいかも知れないよ。というか実際書くかどうかはわからないから見ても害はないかも知れないよ。

なんとなく、では出てきてるのだけれども。書く時間が。

タイトル未定
映像研究会というか映画作りのサークルみたいなところが舞台のお話。和製ホラーに傾倒してるような感じのアレで。ただ問題点として、そういうモラトリアムを有効に活かした楽しく有意義かつユースフルな青春というものにあまり縁がないためリアリティがっていうかあれだけ遊んでおいてというか書いてて切なくなるな。チクショウ。
鈍色の匣(にびいろのはこ)
「匣」って様式美っぽいからなんだか使うのを躊躇するのだけれどまぁいいやこの際。高橋ツトム + アンファン・テリブル + 和製ホラーのエッセンスというかそういうパクリ方を思いつきましたというか。
カウントダウン(かうんとだうん)
カウントゲーム の続編。カウントゲーム 2 とかのタイトルでも全然いいんだけど。前作であるカウントゲームの不可解な結末が遂に明らかに!とかそういう野暮なことはしませんよ。ただあれ計算面倒臭いんだよなぁっていうか小学生レベルの計算を何面倒臭がってんだ阿呆がって感じですが。

考えてはいるのだけれど。考えては……いるのだけれど……。

mixiiiiiiiiii

ご招待(半ば請求)を受けて登録した。とりあえず中を見てみたいという人類なら誰しもが持つであろうはずの生理的段階とも呼べる原理的な欲求増してや男性であれば十人中十人が持っていると断言しても過言ではないかも知れない「覗いてみたい」という気持ち、これが六時半に起きて電車に乗って実習に行って疲れて帰ってきて課題や記録が山積みの僕の気持ちを嫌になるくらい後押ししたのでした。誇張表現。

ともかく使い方がよくわからない。ヘルプを読めばいいのだけれど、物心ついてゲームを始めたあたりからとにかく説明書を読まないタチだったので今回もまず読むという行動パターンはあり得ない。ダメ人間ポイント、プラス 24 ダメー。合計ポイントは脅威の四桁台に。

そんなこんなでとりあえずコミュニティにいくつか入ってみる。ついでに orkut で友達登録してくれた人あるいは突然の一方的な登録に快く応じてくれた生き神のような御方をマイミクシィとやらに登録してみようと試みる。なんか、メッセージ入力欄みたいなもの。あーダメダメ。無理。英語というフィルタを通して何とかごまかしごまかし orkut を利用していた僕にとってですね、モロに人間性現れる母国語というものは禁断の領域というかそういうアレですよ。わかったらそんな目で見るなよ。

招待してくれた方に物凄く申し訳ないとか思いつつまたもやソーシャルネットワーク内引き篭もり状態。頭を駆け巡る内弁慶という言葉。ネット弁慶にもなれない器。

21:57 追記
ジョディ・フォスターのコミュニティがあって「よし入るわい」とか思ったらコミュニティ管理人の承認が要るとかでそのためにメッセージを書かねばならないということで煩わしいのでやめてしまったのでそういう制約がなくなったら楽しめる人はもうちょっと増えるんじゃないかと思いました。まぁ何でもいいや。

徒然に阿鼻叫喚

帰りの電車でうとうとしていたら、中学生くらいのとても中学生とは思えない恰幅と眼鏡とダミ声の持ち主が隣の席の友人らしき人物に語りかけているのが聞こえた。彼が友人と思っていてもその隣の席の彼はそう思っていないかも知れないし、実際彼の語りかけは叫びに近く聞くに堪えないものだったのだけれど。

「なになにみたいな感じってさぁ、ただ二回言ってるだけじゃん。感じって、みたいな、ってことでしょ。なになにみたいなみたいな、って言ってるじゃん。何言ってんのお前」

「何言ってんの」とはまさしく彼自身が自ら問われるべき言葉であるように感じられたのだけれど、彼らの日頃の関係というものに全く興味を感じなかったので物凄い勢いで眠りに落ちた。同様に彼の語りかけというか叫びにも全く興味を感じないことの証拠でもあるのだけれど。彼の将来が順当に絶望で埋め尽くされたらいいと思います。

そういえばその彼のファッキンなダミ声というか最早ダメ声というレベルの毒を有すると言っても過言ではないその声が耳に入ってから、どうも下腹部の調子が悪い。彼のファッキンなダミ声というか最早ダメ声というレベルの毒を有すると言っても過言ではないその声が何らかの害を及ぼしていると考えるのが至極当然であることのように思われる。今すぐ阿鼻叫喚の無間地獄に落ちたらいいと思う。

そういえば小学三年生くらいの時分、どこぞのテレビ局の偉いさんがやってきて講話を行ったことがあった。全校生徒が体育館に集められて有意義と対極的な位置づけの話を聞かされたのだけれど、最後にその偉いさんはホワイトボードにいくつかの四字熟語を書いて「これが読めたらニュースキャスターにしてやる」と幼い女子生徒に向け明らかに卑猥な視線を送ったりしたものだったけれど、残念ながら彼の思惑通りその四字熟語を読もうという輩は名乗り出なかった。実を言うと当時モーリス・ルブランから西遊記まで読み漁った文学少年的存在であった僕には読めたのだけれど、壇上に上がって自慢げに「阿鼻叫喚」とか「四面楚歌」とか人前で発言するほどの厚顔さは残念ながら僕にはなかった。もっともニュースキャスターなどという職業にはこれっぽっちも魅力を感じていなかったので、その偉いさんが小学生相手に得意げな顔をするのをただ哀れみに似た感情でもって見つめることが選択し得る唯一の時間の潰し方だった、ということもまた事実であるのだけれど。

「阿鼻叫喚」という言葉からくだらないことを思い出してしまった。ともかく、下腹部が痛い。ダミ声で喚き散らすお子様は地下鉄に乗れない法律を作るといいと思います。作れ。

欠点の指摘とか

広く公に文章を公開しつつ議論・討論をなさる方々は今日のインターネット上に数多く存在する(インスタントメッセンジャーとかログの公開を想定していないものでなく、HTML ファイルで参照したりされたり、の)。ディベートが弱いとされる日本人の性質を払拭するかのようなこの動きはもうずっと昔から続いていて、それを遠巻きに眺めることを趣味とする人もいる。そこから口を挟む人もいるし、こっそり間違いを指摘する人もいれば、突然主役になろうと飛び込む人もいる。大抵どれも見ていて興味深いし、本人たちも楽しんでいることと思う。

けれど、たまにどうしようもなく的外れなことを発言する人がいて、こういう人にはどのように対処すればいいのか、ということが数年経った今でもわからない。討論慣れしていないだとか語彙が少ないとかではなくて、決定的に読む力が欠如しているか、自分に物凄く甘いか。ある人たちは「そっち方面の知識はないのでよくわかりませんが」と、丁寧に自分が無知であることを前置きとして予防線を張ってから主張する。相手に自分の知識不足を欠点と指摘される前に自分から暴露して、そこは突かれても自覚してますから痛くも痒くもございませんよ、ということだろうか。正直そこまでして輪に加わることがどのように感じるものか想像がつかないのだけれど、主張したい主役になりたい、そういう願望でそういう行動に出るんでしょうかね。

とか書いてるけど、自分もそういうことやってそうだなぁなどとも思う。無意識のうちの防衛線というか。指摘されにくくする小細工を無意識にごそごそしてたら、とか想像すると自分に幻滅する。ああ。

寝ない派

ふとしたきっかけで徹夜することがたまにある。休みの日、予定よりちょっと遅れて目が覚めたときとか。翌日は普通に用事があるから早く起きなきゃいけないけれど、早く寝るには遅く起きすぎた、とか。

というわけで徹夜しました。起床後十七時間経過。あと十二時間くらいは倒れたりしませんように。

5:12 追記
というかむしろサボりたい。サボって惰眠を貪りたい。意図せず洒落っ気のある文章になっちゃった!ね!サボりたい。サボりたい。学校行きたくない。教授から研究計画書受諾のメールが届いて「とりあえずこれで大丈夫ですね」なんて書いてあったけどむしろ大変なのはこれからだとわかっているしもはやそんな言葉のマジック程度では心の安らぎすなわち安息は得られないわけで。ああ。

っていうかアクセス解析見て気付いたのだけれど、妙な検索ワードで出てくる検索結果 に全然納得がいかない。Google に笑われている気分。

マークアップに悩む

本来こういうのは一番最初に解決されるべき問題であって(CSS どうのこうの以前に、という意味で)、つまりそういうことに今悩んでいるのはまぁつまるところ脳の容量ないし処理能力が一般のそれと比べて若干見劣りするかも知れない性能だからとかそういうアレなんですけれども。多分ね。

で、その弱めの脳をどのように目一杯悩ませて青春を謳歌しているのかというと、というか謳歌はしていないのだけれど、というか「青春?」とナチュラルに疑問符が付くのだけれど、青春というアレは選民主義者なのですか?淘汰分別の後然るべき健全青少年のもとへ送り届けられるという青春というものの存在を噂だけ耳にするものの、実物を確認するには至っておりません。情報お待ちしております。

追記。

今頭を適度に悩ませているのは monologue の方のマークアップで、見出しのどうのこうのがよくわからなくなっているようなそういうニュアンスともとれる事態に。

現在 h1 でサイト名、h2 でカテゴリ(コンテンツ)名、h3 で創作小説のタイトルとかマークアップしてるのですが、創作小説のサブタイトルは h4 要素としてマークアップするべきか?みたいなそういう感じに。現在は h3 要素の中にねじ込んでますが、これは span で括ってマークアップしておけばいいのか h4 要素としてマークアップするべきなのか。いや h4 にするのは物凄く違和感があるし(h3 の下位項目でも何でもないし。多分そうすることはないだろうけど)、h3 の中に span で埋め込むのも妙な気がする。妙でないと言えば妙でないかも知れない。妙ではないと言われていることもあるかも知れないし、妙ではないと言われていないこともあるかも知れない( ラムズフェルド法比喩表現 )。

えー、多分 h3 の中にねじ込みますが、より良い方法というかそういうアレがあればお寄せください。現在 h3 要素の中に入れ込んである前後の括弧は当然ながら消す方向性で。消すのが面倒で放置してたとかそんなんじゃないよ。全然ソンナコトナイヨ。ナイヨ。

気の良いコンビニの親父

名古屋市営地下鉄東山線高畑駅の三番出口出てすぐ左にあるミニストップは要注意だ。物凄く要注意だ。あそこの店長と思われる六十代前後の親父には要注意だ。

彼は、物凄く腰が低い。物凄く腰が低く丁寧だ。物凄く腰が低く丁寧でなおかつ挨拶をよくする。物凄く腰が低く丁寧でなおかつ挨拶をよくしサービス精神にも溢れている。

「(朝七時半頃、入店)」
「いらっしゃいませ」
「(週刊誌とチョコレート持ってレジへ)」
「朝早くから出勤前にありがとうございます(レジ打ち)お会計 443 円になります」
「(小銭を探して財布をあれやこれや)」
「どうぞごゆっくり時間はありますから」
「(結局五百円玉と一円玉三枚出す)」
「お釣りが六十円になりますお確かめくださいませ」
「(店を出る)」
「どうぞ行ってらっしゃいませ」

実話。
これだけ丁寧語やそういう類の言葉で何度も何度も何度も持ち上げられると自分が皇族か華族か何かそういう生まれつきのお偉いさんであるような錯覚を起こすのは至極当然のことであり、二重尊敬でも使われようものなら全ての客はこの親父の言葉のマジックすなわち営業トークにころりと騙されることも至極当然であってというか騙されている現状であって最近よく朝ご飯をここでお世話になります。

恋愛成績表

ダメ管理人と愛称相性診断でもどうぞ。

いやーダメだわこれ。ダメだダメだ。

歯がやばい

上顎右の犬歯(俗に言う糸切り歯)がいまだに乳歯です。永久歯でなく。別に特に意図があるわけではなくて、ただ単に永久歯が作られなかったというだけでそうなってるのですが。こういうの奥歯に多いそうですが上顎の犬歯に、ってのは割と珍しいそうです。で、パテみたいなものを盛って形を整えてなんとか用を足していたのですが。

今朝方、その上顎右犬歯がぐらぐらしてきました。最初はそういう夢を見たのだと思っていたら目が覚めてもしっかりぐらぐら。夜中に目が覚めたのを夢だと思っていたのか。まぁ根元の部分は乳歯なので弱くて当たり前です。というか二十一になるまでよく頑張ったというべきですかこれは。抜けたら大事に取っておこう。差し歯にするのかなぁ。

そんな感じでややテンパってます。

18:52 追記
なんか被せ物が外れかかってるだけの様子。でも物凄い違和感。

検索 → 置換

比類無き検索置換専用超高性能近未来型独立仕様アプリケーション Devas を用いて うだうだしていたマークアップ関連の物凄くやる気の出ないタイプの悩み をわずか数十分で片付ける。というか数十分もかかるとは思わなんだ。それくらい Devas 強力。発音はディーヴァス。Vector におけるジャンルはユーティリティ。

検索・置換ソフトのひとつふたつ知らずに大量のファイルを抱え込むウェブサイト運営は無謀の境地であり、例えるなら「無人島にひとつだけ持って行っていいとしたら何持って行く?」と無人島へ向かうというサバイバルかつデンジャラスなシチュエーションにおいて「ハンモック」と笑顔で間髪入れず答えるかのように無謀であり、また別の例え方をするなら「願い事がひとつ叶うとしたら何をお願いする?」と尋ねられ「全部の願いを叶えてもらう」とか「願い事を叶える力をもらう」とユニークかつユーモラスかつ傲岸不遜に回答するかのように大変ですよみたいな。みたいなー。最初に書きたかったことをどんどん忘れる。

結局、置換ファイル総数 285。なんだこれ。

0:52 追記
修正。46 ファイル追加。合計 331 ファイル。

0:55 追記
もう 2 ファイル追加。合計 333 ファイル。イェア。

酢めし疑獄って何だろう

そういえば、というのもアレだけれど、「がんばれ酢めし疑獄!!」の第五巻つまり最終巻を買った。最初チャンピオンコミックス売り場にも見当たらなくて「なんだ全然品揃えが悪いじゃねぇかコンチクショウ」などと思ったりもしたけれど普通に新刊のコーナーにあったし、本屋でうろうろしながら GBA すなわちゲームボーイアドバンスをやってる中学生らしき少年がいて何しに来てんだよとか思ったりもしたけれど母親の付き添いらしくてちょっと納得したっていうかでもやっぱりゲームはどうかと思ったけれど。

施川ユウキ氏みたいな知的に面白いことを言える人は友達にいると楽しいと思うのだけれど TPO すなわちタイム・プレイス・オケイジョンによってはとても頭に来ることもあるかも知れないと思った。ラーメンズで言うと小林賢太郎氏と毎日三食共にするとさすがに消化不良を起こすかも知れないみたいな。その点、天然系の面白いことを言える人はなかなか飽きないように思う。彼らないし彼女らのボケは計算されたものではないから周期のあることが多い。ラーメンズで言うと片桐仁氏と三食共にするのは消化不良は起こさないだろうけれどでも何か食欲不振とか起こしそうだしやっぱり食事はしにくいかなぁと思った。

結婚するなら断然後者。なぜなら天然ボケは萌え要素として(以下略)。

うどんげ

ちょっと見かけたので読んでみたら面白かった。

うどんげの花

うどんげ「優曇華」・インドの想像上の植物で、三千年に一度花を開き、その花の咲くときは金輪王が出現すると言い、また如来が世に出現すると伝える。

実際は昆虫クサカゲロウの卵が草木の枝や古材や器物などについたもの、約1.5センチの白い糸状の柄があり、花のように見える。優曇華が三千年に一度開花するところから極めて稀なことのたとえ。通常は卵が音符のように付いているが花が開いているものは珍しいと言う。

何が一番面白かったって、画像。うどんげの花がぶら下がってる枝の上で何やらいちゃついているてんとう虫二匹。畜生め(正しい使い方)。

自画自賛

多分経営戦略とかそういうものだと思うけれど、自分で自分とこの何かを「好評」とか「人気」とか銘打ってしまうことが恥ずかしいことに思えてならない。実際好評だったり人気だったりするのだろうけれど、自分でそう評価することは気が引けてしまうというか。

「これが君にとっての好評?」
「へぇ、これくらいで人気っていうんだ」

なんて思われたりしたら凹むじゃないですか、みたいな。ね。本当人間の器小さいな。

そもそも「好評○○中!」とかいう宣伝って実際効果あるんですかね。「人気の○○コーナーが云々」とかって、別にその一言二言で興味をそそられるものではないだろうし。誰かが他所様の紹介をするときに「○○で人気の~~」とかっていうならその相手を推し量る尺度として多少効果を持たないと言えないこともないとは思われますが果たして。どうでもいいか。

歯が取れそう

ちょっと前に 歯がやばい とか言ってたけれど、今は取りたくて仕方がない。邪魔くさい。うまく物が食べれない。噛めない。

で、現状どうなっているかというとまさしく首の皮一枚的な接点でもって堪えている状態なのだけれど、どうやら被せ物(作り物の歯、ってことです)が歯肉の中へ深々とそういう感じになっているらしく、なかなか自然に取れそうにない。試しに引っ張ってみたら結構痛い。無理すると血とか出るかも知れない。それは結構困る。ので放置。

それにしても食べにくい噛みにくい。あー。あー。くっそう。

電車のアナウンス

「危険物の持ち込みは禁止されております」とか「駆け込み乗車はおやめください」とかはわかる。全然わかる。言われなくてもわかってるよってくらいわかる。誰よりもわかる。

「白線の内側でお待ちください」はちょっと微妙。白線の内側って結局電車側なのかホーム側なのか内側の定義がよくわからないし、ともすれば白線の上でなんかこう平均台みたいにバランス感覚披露しかねない。けれどまぁニュアンスはわかる。白線を基準にして何かしら気をつけろってことだろう。

「一人でも多くの方が座れるよう、座席は譲り合って」これは全然わからない。もう本当全然わからない。可愛いあの子の本当の気持ちくらいわからない。今何をタイピングしてるのかっていうのと同じくらいわからない。譲り合って、ってことは順番に、ってことか?

「さっきまでは僕座ってましたんで、どうぞ」
「おや、すみませんな。次の区間ではまた交代しましょう」

こういうことだろうか。でもこれだと交代しようと思ってた矢先に「いえ、僕はここで降りますから」なんて言われたらカッコイイこと一方的に言われたみたいで腹の虫がおさまらない。握った拳の治め方がわからない。身を挺して丸く治めようとする兄貴的存在とかもいない。

ともかくよくわからないので何とかした方がいいと思う。あと「不審物を見かけたら乗務員まで」ってのもよくわからない。大抵他人の忘れ物は不審物と呼べるように思う。持ち主不明の物がそこへぽつんと置かれていたらおかしいものだから。