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保育園を見てきたよ

もうだめだ。四歳児なんかとわかりあえるはずがない。いやそもそもそういう発想が間違っているのかもしれないけれど。

昔の偉い預言者は「人間同士、同じ生き物なのだから、話し合いで解決できないことがどこにあろうか」というようなことを言っていたような気がするのだけれど、気のせいかも知れないけれど、さすがにこの主張には無理があるというものだろう。

まず、連中は絶望的に言葉を知らない。話し合いをするために同じ土俵に立つことが出来ない。まず何を話したいのかを理解させるために軽く通常の数倍の労力とカロリーと情熱を要する。これはもう並大抵のものではない。これを成し遂げる全エネルギーを多方面に向けようものなら、きっとダムのひとつやふたつ建設してしまうだろう。しないけど。
次にやつらには、驚くほど時間がない。どう頑張っても一年しかない。場合によっては数ヶ月、数週間しかないような状況。その宇宙的観点から見下ろせばあまりに矮小な時間という一種の計測値が変化する間に、やつらは五歳児あるいはそれ以上の何かになってしまう。どう頑張っても、やつらとお互いを理解するために与えられた話し合うための時間は少なすぎる。四歳児と五歳児との理解力の差に天と地ほどの、冥王星と海王星ほどの、幼なじみの彼女との心の距離ほどの、あまりに絶望的な差があることは明朗快活な読者諸氏には既知のことであることが確信的であるので割愛する。

そして彼らの最も凶悪かつ恐ろしいところというのは、それらを全てちゃらにした上でさらにお釣りがくるほどの「愛くるしさ」という愛なのか苦しさなのかよくわからない表現をしてしまうほど胸に刹那さに似た感情を喚起させる行動・思考回路・形態を手に入れているという点であるといえよう。
残念ながら彼らのこういった特色は時間という不可逆的な流れの中において徐々に失われていくことが通常であるが、まれにそういったものを超越する存在も現れる。彼らに対する畏敬の念を込めてか、人はそれを「萌え」などと称することもあるが、この概念が表面化したのは比較的最近であり、現在「萌え」対象である人物が数十年後に訪れる避けられない老化に直面した際の、ゲシュタルト崩壊にも似た秩序性の完膚なき破滅とでも呼ぼうか、とにかく彼らのどうしようもない絶望感に関しては想像を絶するものであることくらいしか我々には想像することができず、これが実際に観測される瞬間を私は心から待ち望んでいる。

話がやや逸れたので元に戻すが、彼ら ―四歳児と呼ばれる集団― に関しては「理解力」「愛くるしさ」という二点で既に述べた部分が非常に大きいといえよう。例えるなら彼らは不確定性を体現したかのような存在であるととらえることもできるし、いわゆるラプラスの魔という旧世紀的な妄想の果ての神的存在(仮にこれを悪魔的存在と呼んだところで弊害は何もない。それの名前はさして重要ではない)を一撃のもとに葬り去るカオスというものが彼らの行動のひとつひとつに見て取れることは、多少観察力に長けている人間であれば誰しもが容易に気付くことが出来るだろう。例えばこの視点が市民権を得るような、大勢が彼らのその矛盾と原理的な行動に気付くことが出来たとき、我々の新しい時代の幕開けは重層で荘厳なファンファーレとともに訪れるのであり、今夏の訪米に関して前向きな姿勢をいつになく示す総理の思惑は如何にといったところですが、それではここで出来上がったお料理の方を見てみましょう。こちらにあります完成品ですがこれはレシピに添って制作されたものであり、犯人グループはこれらをある研究施設から強奪したものだと主張していますが、いまだにその消息はつかめていません。どんな些細な情報でも構いません、今すぐこの番号までダイヤルしてください。フリーダイヤル・カイモノ・ダイスキ、フリーダイヤル・カイモノ・ダイスキ。平日は午前八時から午後五時まで、えー、それくらいでパートに入ってくれるとこちらとしても助かるんですけどね。あとは月一回の査定がありますから、それ次第では本社に栄転なんてこともありますぜ、代官様。越後屋、お主も、何奴!計ったな!ひかえい!こちらにおわす方は、先の将軍、ひかえい!この紋所、ひかえい!

とか、ゴミみたいな文章というか明らかにリソースの無駄な消費を続ける実験とかしてみたのだけれど、というのは今思いついた言い訳だけれど、入力した文章に対するレスポンスが極端に悪くなってきた。ここらがテキストエリアで編集するツールの限界だろうか。フォントをアンチエイリアスなしのものにしたら多少マシかも知れない。

とにかく何が言いたいかと言うと、保育園児可愛かったです。

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