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目的と手段(あと何か)

昨日友人と話していたことで、さっき別の友人と IM の話題になったことなのだけれども、いわゆる「泣ける話」だとか商業ベースで大々的に展開しているものが「感動しない」というのは(ここでいう感動とは鑑賞中に泣くとか悲しくなるとかということではなくて、鑑賞後に考えさせられるだとか、読後感などの類のものを指している(と思う))それが「泣ける」を目的としているからであって、手段として選んだ「読者(視聴者)を泣かせる」が目的となってしまっているから後に何も残らないのは当然のことであって。以前 頭の悪いヒット作 というエントリーで参照した Deep Love という小説(?)や、ハーラン・エリスンの小説がタイトルの元ネタになっている小説だとか、あとはまぁ全米で一位になる映画とか、そういうアレのことであって。世間を知らない一般人 というエントリーで書いたことと被るけれど。

その場限りの感情の遷移を求めることが悪いことだとは言わないけれど、ただ涙を流させることだけに的を絞った映画や本によって泣かされることは、「感動して涙が出た」とは言えないように思う。演出や展開の技術的な方法によって涙の出るツボを押されて涙が出た、程度のことであって、表面化した物事の裏にある本質的な部分は見ていないわけで、それは「感動して涙が出た」のではなく「表面を眺めてたら涙が出た」程度のことであって。表面はステレオタイプな技術・演出で埋め尽くされているとなれば、それはもう使い古された技術に泣かされるという。物凄いわかりにくい表現だな。中途半端だし。

実際に中身のないようなやつのことは言及するまでもなく。

20:48 追記
「現実、ほとんどの物事には中身がないじゃないか」ということを言われたことがあるけれど、それはそれで「中身がない」という中身があるのであって、そのことを核に据えて映画なり小説なりを制作したらそれはそれで面白いものになるのではないかと。思います。

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