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人の振り見て我が振り直す振り

別に「誰が」とか「何が」とかそういう具体性をもってして物事を語るつもりではないけれど、人と人とのコミュニケーションにおいて一番鬱陶しいのは「コミュニケーションするつもりがない人」であると感じたり感じなかったり心に刻んだり道端に吐き捨てるような思いであったり。

例えば、「自分はこれこれこういうコミュニケーション上の問題を抱えている」、具体例を示すならば「そそっかしく勘違いをしやすい」「人の話を鵜呑みにしやすい」「短気ですぐカッとなる」、これらのような項目をさもアイデンティティここにありなどといった風に自己紹介しそれでいてなお誰かとのコミュニケーションを積極的に行おうというのであれば、彼(彼女)は「コミュニケーションするつもりがない人」である可能性がある。彼(彼女)には少なからず問題点があり、それは「自分の欠点を直す気がない」あるいは「自分がコミュニケーション上の問題点を抱えていることを自覚しさらに相手に不快感を与える可能性を現実的なものとして実感しているにも関わらずそれに構わないでコミュニケーションを試みる不届きさを兼ね備えている」といった点に収束される可能性がある。

また、相手の反応を一手先までだけ予測して発言行動する連中も「コミュニケーションするつもりがない人」に含まれる可能性がある。彼(彼女)の発言行動は全体を見通した有意義な構想でもなければ、相手との感性知性の刺激を楽しむつもりの応対でもない。ただ自分の発言を(ある意味では)客観的に(物凄く狭いものではあるのだろうけれど)見つめ、相手はこのような反応をしてくるかも知れない、と会話やり取りをせばめたものを放り投げ、さらにある者は実際それに対する反応が何であろうと構うことなく当初予定していた「反応に対する反応」を述べてみせる(大概の場合はここで綻びが見えるので不自然さに気付くだろうけれど)。

自分の欠点を自覚することは悪いことではなく、また同様にそれを公開することも悪いことではない。自覚してもなおコミュニケーションを取りたい気持ちも悪いものではない。悪いものではないが、ともすれば「滑稽」な領域に片足を突っ込んでいる自分の姿を省みてみることも不要なことではないこと、またコミュニケーションにおいては何が一番重要であるのかということに考えを巡らせることは決して優先順位の低い事項ではないということを覚えておくべきである(もちろんコミュニケーションの質によって「何が一番重要であるのか」ということは変化するし、それを見極められず決め打ちし続けることもなかなか滑稽である)。

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