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不毛な議論

blomemo 経由。

不毛な議論を避けるために

winny、イラク人質、ネバダ、拉致家族、参院選など、代わる代わる問題が出てきて、そのつど議論(というか意見表明)が行われてきたけど、だいたいが相手の意見の論理矛盾を突く「論破志向」や、なにかしら正義を基準として相手の不正義を突く「正義志向」、そしてその複合型などが論法の主だったように思う。しかし、論破したところで相手の意見が変わるわけでもなく、正義をぶったところで逆に相手から不正義の烙印を押されたりと、結局、意見は集約されることなく対立したまま共存し、そしてそのまま意見自体が忘れられていくと、いうようなパターン。つまるところ、意見というものは集約されるものなのではなく、複数の答えが、同時に成立している状態が普通なのではないかと。だから、意見そのものの内容をみるよりは、なぜそのような意見を発したのかという、相手のスタンスの在り方を理解したほうが、乱立する意見に一喜一憂しないためにも有意義なのではないかなあ、とエラそうな主張。

視点の違いといえばそれで済むのかも知れないけれど、スタート地点が少しズレているようにも思える(アホみたいに引用が長いのには目をつぶってください)。

相手の論理の矛盾を指摘する(突く?)ことが相手を論破するための手段であるかのように述べられているけれど、そもそも穴だらけの論理で何かを主張するような連中は議論だの何だのの土俵に上がってすらいない状態なわけで、例えばその状態で結論を決定付けて他者に押し付けるような態度をとれば「お前の言ってることはおかしいじゃないか」と突っ込まれることはごく当たり前のことであるのでは。黙殺されるなんてことに比べたら余程マシな対応だと思います。

正義云々というのがどのような状況を指しているのか具体的な例が挙げられていないため憶測だったりしますが、基準となるような正義が存在するのであれば(それが確かに正義と呼ばれるにふさわしいものであるなら)、また相手がその正義から明らかに反しているのであればそれは「お前は人道的に良くないこと言ってるぞ」なんて言われるのもまたごく当たり前のことであって。

というか、議論というものは意見を集約させるために行うものなのでしょうかね。十人十色なんて古典的な諺を持ち出すまでもなく他人は他人の考えを持っていることは物凄く当たり前のことであって、自分と違う意見に対してわざわざ一喜一憂するような連中がのさばる現状に問題があるかどうか?はともかく、「そもそも意見は集約されるべきではないのではないか?」なんて別に新発見でも何でもないように思うのですが。それを認識できない発達段階というのはせいぜい十五歳くらいまでであって、けれどそれを達成できない方々がネットで熱弁振るってる現状がどうか?はともかく(以下際限なく続くので割愛)。

7/21 18:15 追記

まあなんといふか

そもそもおてもん氏が浅薄極まる思考をしてゐることは、「客観なんてクソ食らえ!主観重視の時代です。」なんていふ一文を見れば容易に想像できる。或は、「そういうあなたはナニサマなのかと問いたい」といふ「問い」を発するおれもん氏は「ナニサマ」の類に入らないらしい。

(中略)

だから私は、イソムラ氏の文章を皮肉として読んだが如何。

恐らくこのような言及をするエントリー(記事でも文書でも何でも良いんですが)の存在自体が皮肉になるんでしょうね。おてもん氏のサイトに掲げられている標語のようなものはおそらく「他人の目を気にしてやりたいことをやれないのは勿体ないぞ☆」といった類のことを言おうとしてうっかり、というものなのだろうと好意的に(?)解釈するとしても、自身の論理に矛盾や穴があることを気付かずに、その上物事の法則性であるとか傾向を分析するだとかをしてしまうというのは(更に手厳しく言うなら、それを悪いことであるかのように同一文書内で言及するということは)、良く言えば「医者の不養生」であって、ぶっちゃけ「どんぐりの背比べ」と変わらないものであって。いやこの表現は違うか。

ともかく、穴を指摘する人を穴のある理論でもって「不毛な連中」と定義づけるこの文書は、穴があることを著者自身が気付かない・気付けないまま(もちろん著者に穴が空いている故に)再度土俵に上がるかのような流れを見せるという点で、「穴を指摘する人」にとって頭痛の種であるか、あるいは、穴を指摘することの真意がどれほどに伝えたい相手に伝わらないかを如実に示す、という点で皮肉であるともいえるかも知れません。

無意識のうちに皮肉る結果になるというのは何だか虚しい気分にしかなりませんが。

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