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好みのタイプとか

どうもこのところ自分内革命が起きたりなんかしたりで、好みの女性のタイプというものが変遷しているような気がしてならなかったりそうでもなかったり。こういうものは内面的な成長に伴って変化することが自然であるので全く問題はないのだけれど、どうしてそのように変化したのかを詳しく分析し理解することは割と重要かも知れないと誰かが言っていたかも知れない。そうでもないということも誰かが言っているに違いない。

「芸能人で例えると誰?」と聞かれて昔は困ったことを思い出す。

中学校進学後つまり二次性徴を迎えた若い男連中の間では「自分の好みは特殊なんだろうか?」という疑問を必死に否定することに躍起になるのが一種の正常な成長であると言えるため、修学旅行あるいは林間学校などで「お前誰が好きなの?」という会話を交わすことは正月に餅を食べるくらい当然のことである。この点に関してはかの森田一義氏も同意見を述べているためほぼ間違いないと考えられる。今適当に考えたけど。

このとき具体的に誰かをうっかり口にしようものなら卒業時まで「あのときのことバラすぞ」なんて具合に切り札として活用される羽目になるため(大抵この手の話を持ちかける輩は上手く話題から逃れる術を知っている)、「今は特にいない」などと答えることによって体良く相手の「密約を交わす」「秘密を共有する」という大人レベルのどす黒い提案を断ることが望ましい。

しかし、この際無傷で生還することもまた難しく、より逃れにくい "契約" として「芸能人に例えるとどういうのが好み?」という話題が持ちかけられる。この質問から逃れることはとても難しいことは関口宏も自身の著書の中で述べている。これも今適当に考えた。

これらの点を踏まえて、話を冒頭に戻すことにしよう。「芸能人で例えるとどういう人が好き?」と聞かれて本気で困った当時の自分を振り返ると実に感慨深いものがある。彼らに自分の異性に対する好みという意識的・観念的実存に迫るレベルでの秘密を握られてしまうことを恐れて返答に困ったわけではなく、当時の自分には本当に好意の対象となるべき有名人などがいなかった。ていうかドラマとか全然見なかった。今も見ないけど。「あんなもの作り物だ」と冷めた意見を平気で述べる嫌な中学生だった。

けれどそのときからホラー映画は好きだった(ていうか小学生の頃から観てた)ため「シガニー・ウィーバーカッコイイよね」とか「ジョディ・フォスターは結構好き」などと口にして同年代の連中に「あいつ言ってる意味わかんない」とかあからさまに後ろ指など指されたりしたものだった。そういえば正月だったか友人に「映画観に行こう」と誘われて映画館へ赴いてゴジラ対なんたらかんたらを観ることになって軽く憂鬱になったりしたこともあった。それは今全然関係のないことだけれど。

で、中学生の頃はジョディを見たらカフェラッテとかいう CM 見て大喜びするちょっとアレな思春期を過ごしたりしたのだけれど、いつからだったか割と一般的な芸能人のことは理解できるというか話についていけるというか名前が会話に出ても異国語を耳にしたようなリアクションを取らないようになった。元々取らないけど。そうしていくうちに「芸能人で例えるとどういう人が好き?」という問いに正面から答えられるようになっていた。

これに関する変遷がなかなか面白いなぁと思っていた昨今急激に好みが変わって面白いよ、ということが冒頭の文章です。回り道長いな。

確か高校くらいの頃には奥菜恵に物凄くハマった時期があって、それと前後して田中麗奈(というよりなっちゃん)に熱を上げて、さとう玉緒や釈由美子のキャラクターがオイシイなぁとかそういう時期を経て、大学に入った後は何のきっかけだったかにより深津絵里にハマったりもしたし、同級生の影響で小野真弓の誕生日を覚えたりもしたけれど結局彼女に対して特にどうということはなかった。小倉優子がよしもと系の喜劇に出てると気になるのは大根だからという理由だけだろうか。あと久しぶりに前田愛見て「幼なじみにこういう人いないかな」などと妄想したりもした。今思い出したけど小学生の頃、朝の NHK 連ドラを教室で見る教師がいて、その影響で石田ひかり(当時「ひらり」で主演)に憧れたりしてたなぁとか。最近は週刊誌のグラビアアイドル見るのが嫌いではなくなりました。もうおっさんです。

あと海外のタレントさんでは、最近はめっきりダイアン・クルーガーです。最近つうかここ一週間くらいだけれど。数年前はナタリー・インブルーリアだったんだけどなぁ。ジョディはいつ見ても綺麗です。

16:35 追記
メグ・ライアンを忘れちゃダメだよ!マジでダメだよ!

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