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映画の上手な選び方

はてなダイアリーがトラックバックを送れるものだとは知らなかった。

映畫批評

あれってバイオハザードだろ?と言つて恥を知らない彼は、たしかに映畫の見方が下手といふのもあるだらう。けれども、スノッブめかした批評をして滿悦してゐるやうならば、なんのことはない、ただ自意識がないだけなのだ。ゴダールの映畫を見て議論するのと、ホラーや純愛映畫を見て議論するのは、程度があまりに違ひすぎる。

ちょっと関係のない話をしますが、昨今微妙に盛り上がっているかのように思われることの多いホラーは、実はとても追い詰められた現状にあるのではないかと考えられます。興行収入が全然ダメ、ということではなく、ジャンルとして既に臨界点に達しているのです。

「でもホラー流行ってるだろう」というご意見もありましょうが、昨今流行っているのは「心理的な」ホラーであり、純粋に七十年代から続く正統派ホラーのファンは恐らくやりきれない思いをしていることでしょう。そんな知り合い一人もいないので憶測でしかありませんが。

「リング」や「シックス・センス」などの、直接的な痛い映像描写を行わない映画が流行っています。先に述べた心理的ホラーとでも呼べるタイプの映画でしょう。この手の映画の一番怖い点は、登場人物が自然ないち市民であることや、導入部での日常性が自分のそれと大差ないように感じられる点から、見えない何かが迫って来るような恐怖、真綿で首を絞められるような状況へ叩き落されるその落差であると言えるでしょう(参考 : ホラーにおけるリアリティの必要性)。もしかしたら自分にも起こるかも知れない、という強迫観念めいたものから、映画館からの帰り道、必要以上に車のドアミラーをチェックする自分に気が付くこともあるでしょう。
それに対して先に表現した正統派ホラーというのは、より描写や被害が直接的であり、例えばロメロ監督の作品のように死んだはずの人間や狂人に内臓食べられちゃう、とか、「エルム街の悪夢」のように連続惨殺事件が起こるだとか(大抵殺される過程を可能な限りリアルに追求する)、より直接的に迫ってくる何かを可能な限り恐怖感を煽りつつ映像化していきます。このため自室で不審な物音が聞こえたときなど、そこに誰かが潜んでいるのでは、という恐怖にかられたりするようです。

前者と後者の明確な違いは、誤解を招きつつもわかりやすい例として挙げるならば「誰かが死ぬときに血しぶきが上がるか?」という点を見ると良いでしょう。
心理的ホラーとしてサスペンスに数歩歩み寄った前者群は、「死ぬかも知れない・精神が破綻するまで追い詰められるかも知れない」という過程を描く段階に最大のポイントを置くため、大抵は何者かに殺されるシーンは曖昧に描かれています。死の直前まで怖がらせるような描写は続きますが(幽霊が自分を睨んでるとか)死自体は簡略化されて描かれるか、別のシーンに移り変わったところで死が明らかになるなどの演出が行われます。前者群において死はその結果が重要視され、登場人物の誰かが死ぬ・精神的に崩壊してしまい廃人となる事実があればそれで十分なのです。そこからまた新しい恐怖を煽る演出は映画によって異なるところですが、例えば「リング」では死に方は恐怖に溢れているけれど一瞬の出来事で、残された人物にとって重要なのは「自分も死ぬかも知れない」という、簡略化するならば生から死への状態変化が自分にとって脅威であるわけです。そこにある感情は家族など遺される者への思いであったり、単純に生への執着であったり様々ですが。
逆にスプラッターなどと形容される後者群は、死そのものを描くことが重大なイベントであり、どんな脇役であっても最期のシーンは大きな見せ場であったりします。死には強烈な痛みや苦しみが伴い(生きたまま食べられるだとか、切り刻まれて苦しみながら死んでいくとか)、時間・バリエーション・進行の緩急など映画の制約上許される限り残虐なシーンが描写され続けたりします。死は痛みであり苦しみであり、逃げ惑う主人公は「怪物が存在し自分を追う恐怖」ではなく「怪物が自分に死(あるいは痛み)を与える可能性に対する恐怖」から行動を起こすでしょう。多くはシンプルに恐怖や凄惨な殺害方法を描くことを重視し、前後関係はほとんど簡略化されているものも少なくありません。心理的ホラーと違って怪物どもは本能で登場人物たちを襲い、登場人物たちの取り得る行動は「呪いの原因を突き止めそれを解く(リング)」などといった悠長なものではなく、目の前にいる不気味な連中を打倒して逃走経路を確保するなどのより原始的で本能に近いものです。

ここで大きく話を戻しますが、ホラー(正統派の方)は現在ジャンルとして臨界点に達しています。多くの観客は凄惨なシーンであろうとそれに慣れてしまい、より生々しく・よりリアルに、を目標として特殊メイクを極めたスプラッタームービーも数打つ間に衝撃が薄れ、「よくわからないけど多分豚の内臓とかぶちまけてる」と冷静に分析される始末です。「人間が傍目に見てて一番痛く感じるのはどういう描写か?」という命題で進化し続けてきたホラーは停滞し、本来あるべき性質であった「人間が怖いと感じるのは一体どういったものか?」という点から現在の心理的なホラーへと移行することになりました。怪力を持つジェイソンや残虐なフレディはコンビを組まないと映画が作れないといった事態に陥り、不死の怪物という体外思想的なモンスターから、生前酷い仕打ちを受け死後復讐するというサマラや貞子のような体内思想的存在へ恐怖の対象が移りました。悪魔と幽霊の差異という点では、西洋思想から東洋思想へ遷移したといっても良いでしょう。ともかく、どれだけ人々を残虐に殺せるか競い合った正統派ホラーは鳴りを潜め、どれだけ人々を怖がらせるか(殺すことは二の次)を競う心理的ホラーがそれに取って代わりました。正統派ホラーは既に限界を超えた地点にあり、今回取り上げた「Dawn of the dead」がいくら興行収入をあげようと、それ以降に正統派ホラーが続くべき道は作られてはいないのです。

と、長々と書いておいて最初の引用とエントリータイトルに戻りますが、このような臨界点を迎えてしまったジャンルにいつまでもしがみつく連中(当然自分を含む)はそれを承知のうえで映画館に足を運ぶのだという前提を持っているものだと思い込んでいた点が誤りであり、ふたつ隣の席に一人で座っている推定四十代のおっさんが自分と同じ思いであろうと、前の席で三~四人連れでわいわいやってた二十代の方々がこのようなわけのわからない郷愁にとらわれて往年のリメイク作品を観に来るはずもなく、ただ販促の一貫としてキーワードになっていた「シックスセンスを越える~」や「全米~」などといったアレが彼らを呼び寄せたのであって、十年も前に終わってしまったジャンルに今や文化のようなものすら求めている時代遅れの連中とナウでトレンドに映画を観る彼らの間に色々な隔たりがあることは至極当然であり、というか書いてて段々憂鬱になってきたけれども焦点は定まらなくなってきたり。ホラーでここまで長い文章書くことになるとは思わなんだ。

えーと、映画をエンターテイメントとして捉えても面白いけれど、文学性があったりしたら(文学性ってもこの場合ホラーの美学とかそういうアレですが)もっと面白いんじゃないだろうか、だとしたらエンターテイメント派はそれなりに映画を選ぶと無邪気に楽しめるよ、ということを胸に抱いて書き始めたエントリーが現在過去のホラー論になってしまい読んでる方々には申し訳ない。というか引用全然本文に使えてない。ちょっと関係のない話で最後まで通してしまった。残念。

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