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ホラーにおけるリアリティの必要性

加藤晴彦出演の和製ホラー映画「回路」をケーブルテレビ局か何かそういうアレで観て思ったことなどを書いてみる。

以前 アホみたいなエントリー を書いてホラーをプッシュしてみたりしたのだけれど、これは主に海外でのホラー事情と考えることができる。日本のホラーにおいてラブストーリーも SF もモンスターもサイエンスも青春も、何でもありなんてことはまずない。いやラブストーリーとかはあるかも知れないけど。モンスターもあるかも知れない。サイエンスはちょっと微妙。SF は多分ないだろうな。だからこれは国外のことでした。そういうことにしてください。

で、昨今のちょっとブームかも知れない勢いの邦画ホラーにおいて重要なポイントはやはり、普通の日常 → ちょっと事件 → 異常な事態、という少しずつズレてゆく流れを楽しみつつ最終的には映画の終わった時点で「いやぁこんな流れになるなんてなぁ」などと振り返ってみることもトレンドの一環であるかと思えるわけですが、とここまで書いてみて「いや案外貞子的な畏怖の対象があればそれで満足なんじゃないか?」との疑問点も高々と頭をもたげ、いやしかしそれでも映画開始二十秒後にそんな怪物じみたものが現れたところで大して怖くはないだろうし、その怪物性を活かすためにはやはり普通の日常とのギャップが重要なファクターだろう、と思い直したり。

というわけで冒頭に戻るわけですが、「回路」もそのような流れ(普通の日常 → ちょっと事件 → 異常な事態)を踏襲したホラーのひとつであると言えます。が、導入部にやや不満というか、「普通の日常」でない部分がやや強く「異常な事態」とのギャップを描き出すことに失敗している感が強いのが残念でした。共通感覚として持っているものをわざわざ映画の中で表現することもない、という向きもあるでしょうが、例えば三年後くらいに文化的に大きな変革が起こらないとも限らないので、その年代世代に依存しきったような日常をアテにするのはあまり良くないと言えるでしょう。無意識のうちに補ってくれる観客がいなければ駄作、いれば佳作、ってな事態に期待するのは間が抜けています。

非日常が魅力的でもそればっかりだったら退屈するのも目に見えているわけだし、そのための前振りである日常を上手く描写できていなかったために何だかなぁなんてことになるのはとても勿体ないことです。「回路」の場合は彼ら・彼女らの行動パターンがとても非合理的で共感とかそれ以前の段階のものであるように感じました。どこか遠い国の文化を眺めているような。仕事仲間が目の前で首吊ったのに、「田口くんのこと?」と問いかけておいて「忘れなよ」なんて慰め方をするとても無神経な女性って今時多いんですかっていうか名前田口だったっけ?
いやそうじゃなくて、最初の植物園のシーンで「良くないことが起こってる気がする」なんて安っぽい台詞で非日常を手早く演出しようと安い試みに出たことが見事に滑ってっていうかあれって植物園なんですか?
いやそれより何より、どこにでもいる一般人としての位置づけであるところのジュンコや曽田だか曽根だかそんな名前の彼なんかがあまりに大根役者っぽくて全然こんなやつ身近に考えられるわけないじゃんていうか多分役者自身がホラーを意識しすぎて「怖い雰囲気を出しながら演技しよう演技しよう」とか気負いすぎている点が多分良くないのであってホラーの前半はもう青春ドラマ並みの頭の悪さでもって強引に進めた方がきっと楽しめるわけだし、怖いけど観たいなんて本能的な部分での欲求はストーリー盛り上がれば嫌でも出てくるわけだからどんどん普通普通してればいいっていうかでも怖いシーンでは怖い顔しろよっていうか携帯見たときのその表情はさすがにあり得ねえだろうっていうかだからもううわー(以下略)。

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