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世界を知らない一般人

ちょっと。

Web サイト設計における世界観

その3。世界観という言葉がある。フィクションにおいてどういう世界設定を行うかということであるが、オタクと呼ばれる人間はこの世界観――物語世界がどういう価値観にもとづいて成立しているか――に非常に意識的である。現実世界への適応不全感から、オルタナティブとしての物語消費を志す人間をオタクと呼ぶとするなら、であるが。

反対にオタクである内的必然性がなく、ファンタジー小説や SF などにもなじみのない人にとっては、さほど意識されていない概念でもある。

現実の外の世界を必要とするかしないか――必要とする度合いは、現実世界が頼りになるかならないか、そしてその中でうまく立ち回れるか否かなどに依存すると考えられるが――によって世界観への意識は異なるのである。

要約すると「オタクは世界観設定に敏感、なぜなら連中は現実世界でうまくやっていけないから。やつらには非現実の世界が必要」ということが言いたいのだろうけれど、これは見当違いも甚だしいのではないか。

「オタク」が一般的な名詞として広く認知されたような世代(恐らく現在三十代半ばの世代)以降は、「一部の情報に(他を排除してでも)特化した連中」つまりいわゆるオタクと、「面白いことに広く浅く付き合う連中」に二分することができる。

前者は言及するまでもなくゲームやフィギュアやプラモデルに熱中し、ある者はピーターパン症候群などと呼ばれたりもするし、近年になって不登校や社会不適応・引き篭もりとして問題点が顕在化されたりもしている。注意しておきたいのは、それらが全て結果論であるということ。彼らは彼ら自身が楽しむために要素を取捨選択し、その結果現実世界が切り捨てられてしまったに過ぎない。また、何も絵に描いたようなむさ苦しい青年ばかりがオタクではなくて、普段はどこにでもいる好青年でありながら特定の話題に触れると様相を劇的に変化させるような者もいる。必要以上に自分を曝け出さず、気のおけない仲間に対してのみ本性を見せるその姿は、オタクが迫害され、その後社会適応の道を模索しているのだと考えるとなかなかに面白い。

後者は恐らく、何も問題点のないごくごく普通の一般人として受け止められると考えられる。普通に映画を観て、普通に音楽を聴いて、普通にテーマパークで楽しみ、普通に行列のできる店で舌鼓をうつ。趣味と呼べるものを二つ三つ持ってはいるが、人生を賭けるほどに楽しんではおらず、将来自分の能力に見合った商社にでも就職した後には休暇を利用し趣味として楽しむ、人生において娯楽が常に息抜きの地位を確立している健全な連中である。少なくとも「そう見てとれる」。そこに落とし穴がある。

オタクでない連中、つまり物事に浅く広く関わる連中は、感動させられることに慣れている。彼らはクリエイターが用意したモノに触れ、感動の涙を流す。形態は問わない。何でもいい。映画、音楽、小説、アミューズメント施設、テレビという小さなモニタに映された雄大な自然の風景、丸一日かけてマラソンする芸能人がゴールする瞬間、ネットにアップロードされた真偽の定かでない身の上話、あるいは商業ベースの商品の開発秘話。何でもいい。彼らは誰かに感動させられるために情報誌を漁り、ニュースサイトを巡り、一度琴線に触れるものがあれば諸手を挙げて褒め称え、隣の誰かにそれを伝える。隣の誰かはそれにいたく感動し、その隣の誰かに告げる。こうして受動的な感動を求める連中のなかでブームが生まれる。月曜日九時の連続ドラマだとか、そういうもの。

長くなったが、本題を最初の引用について、という点に戻す。オタクと呼ばれる人間はこの世界観――物語世界がどういう価値観にもとづいて成立しているか――に非常に意識的というのは、間違ってはいない。間違っていないどころか、当然のことである。オタクは「何が?どうして?どうなって?」を常に探求しているし、それが解明されれば子供のように喜びはしゃぐし、そこからまた新しい謎が生まれて自分を楽しませる可能性があることを知っている。重箱の隅をつつけばそこに面白いものがあることを知っている。それは、彼らが「感動させられる」ことに飽き足らず、どうすればより自分が感動させられるかを追及し続けるような性質を持っているからだ。
ただここで言及しておかなければならないのは、前述の通り、オタクと呼ばれる連中は自身の感動のためにそれ以外のものを切り捨てることがある。それは現実世界への適応とて例外ではない。彼らが「より楽しむ」ために、現実社会での煩わしいルールを不要のものと断じて淘汰し、自らの殻に閉じこもることは珍しくない。
それを踏まえた上で次のことをさらに述べる。現実世界への適応不全感から、オルタナティブとしての物語消費を志す人間をオタクと呼ぶとするという前提は全くもって誤りである。オタクは現実に絶望して虚構の世界に足を踏み入れるのではない。虚構の世界へ足を踏み入れてから、誤解を恐れない表現をするならば、虚構の世界へ逃避できる保証があって初めて、オタクは現実世界を自分から切り離すのである。逃げる先も見つからないまま現実から自分を切り離してしまう危ない連中は、ビルから飛び降りるかヤク中がなれの果てである。

またオタクである内的必然性がなく、ファンタジー小説や SF などにもなじみのない人にとっては、さほど意識されていない概念という表現は先に述べた「面白いことに広く浅く付き合う連中(オタクでない人々)」のことであるが、彼らが世界観へこだわりを見せないこともまた当然である。彼らは感動できる事実(という名のフィクション)があればそれで満足するのだし、わざわざ自ら頭を突っ込んで世界観を満喫するといったことはしない。彼らの行動パターンにそれがないか、あるいはあったとして、広く浅くが信条の彼らにとってそれは大して面白いものでもないだろうし、多様なメディアに翻弄されることに多忙な彼らにとってそのような時間は浪費以外の何物でもないだろう。

誤った前提から導かれた結論に茶々を入れても何にもならないが、現実の外の世界を必要とするかしないか――必要とする度合いは、現実世界が頼りになるかならないか、そしてその中でうまく立ち回れるか否かなどに依存すると考えられるが――によって世界観への意識は異なる、つまりオタクを貶めるための発言であるところの著者の総意、「オタクが世界観に敏感なのは現実社会でやっていけないから代替物を求めている」、これはどうしようもない認識であり自己防衛、あるいは自虐の言葉でしかないだろう(著者がオタクか、そうでないか、そんなことはどうでもいい)。オタクが世界観に敏感なのではなく、オタクでない連中が世界観にすら無頓着である、ただそれだけのことである。彼らは江戸時代に横文字を使うような剣客漫画をもてはやしもするし、酷く改悪された往年の名作アニメリメイク映画を賛美したりする。それは、彼らが、世界観というごくごく一般的なことにすら目を向けられず、クリエイターが用意した「感動のツボ」で涙を流すためだけに物事に触れ、極端に言えば文化を空費し続けるような連中であるからだ。

オタクが敏感なのではなく、それ以外の連中が鈍感なのである。

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