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「猫は生きているか?」

物事に結果があるなら必ず原因があることは確かだけれど、その結果がどうであるかを知るためには原因だけでは不足であるといえる。原因が何らかの作用を起こし、結果として何かが生まれ、その次の段階に観測が必要なのである。超知覚能力を持たない、物理法則に対してとても単純シンプル正直ストレートな人間という存在にとって観測無くして結果を知ることは不可能であり、観測をもってして初めて原因を推測する段階に至るのである。

シュレーディンガーの猫が生きているか、それとも死んでいるか、それを知るのは猫がビンの中にいる間は不可能である。そもそも「死」を定義できない連中が「猫は死んでいるのか、そうでないのか?」というのはとても滑稽な問答であるけれど、例え死が何の条件を備えるか定義できたところで、猫が生きているか死んでいるかを猫がビンの中にいる間に知ることは不可能である。死は他者によって定義されなくてはならないものであるし、前述の通り人間は超知覚的な能力によって、例えば猫の脳波や心臓の鼓動を見る・聞くなどすることは不可能だからである。

問題がもっと単純な「毒ガスは発生しているか?」であったとしても結果は同じであると考えられる。毒ガスが発生しているかどうかを知るには、毒ガスが発生しているかどうかを計測する機械が必要である。ビンの中に毒ガスセンサーでも入れておけば事は成立するかのように思われるが、それは猫がセンサーに置き換わっただけであって何の解決にもならない。結局センサーが毒ガスを感知したかどうかを我々が観測せねばならず、それは猫が生きているか死んでいるかを観測する手間とさして変わらないように思われる。

よってシュレーディンガーに対して提示できる答えは、今後どのような技術の進歩・理論の躍進があろうと以下の通りである。「猫は生きているかも知れない。けれどビンを開けたら、猫が死んでいることに気付くかも知れない」

賢そうな文章を書く実験。失敗。

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