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2006年01月21日

フォーン・ブース

何より驚いたのは撮影日数が十日間だとかそういうことであって、確か ソウ が十七日間とかで短いなーとか思っていた記憶があったりとかしたりなんかする具合であったりするのに、だ。何がだ。こういった感じの日数の短さもギネス記録になったりするのだろうか。調べる気力が全くないので君たちが好きに調べるといい。そして僕に報告すればなおいい。

それとキーファー・サザーランドがああいった役割であるのはどうなのかと思った。正直顔を見た瞬間誰かわからず、メイキングで「あー」となったくらいであるし、彼が二十年後にアンソニー・ホプキンスのポジションであるとは思えないし(ていうかこの役柄がハンニバル・レクター過ぎるのだ)、友情出演にしたってあまりにちゃちい役柄過ぎる。声だけで誰かわかるわけがない。そういえば昔 X-FILE が日本初公開された当時、モルダー捜査官(デヴィッド・ドゥカプニー)の声は誰がやってるんでしょう?みたいなクイズが番組の一番最後にあって、正解は風間杜夫だったのだけれど、そんなこと今どうでもいいのになぜ僕がこの話を始めたのか、僕自身が不思議でならない。X-FILE だけにな!(薄気味の悪い笑顔を浮かべる)

あとピッツァマンはいかにもであるし位置付けも可哀想であるしむしろばればれであるし不合理であるし整合性もいかがなものかと思った。この映画において学ぶ点があるとすれば、ステュ(コリン・ファレル)の罵詈雑言の華麗さであると思った。めちゃくちゃなレビューもどきを書いているが、俳優の名前をまともに書いたのは今回が初めてのようにも思う。僕がだめだと思った。

2006年01月19日

ブレア・ウィッチ・プロジェクト

いろいろなところで「つまらない」「くだらない」という評価を頻繁に見聞きする映画の DVD を中古市場において野口英世一枚にて入手したりしなかったりでしばらく放置しておいたのだけれど、たまの休日のちょっと時間の空いたところで観てみた。時間を無駄にする覚悟ではあったけれど、いわゆる B 級ホラー好きにとってそれは避けては通れない道であり、無駄にする時間がなければハリウッド娯楽大作でも観て涙を流していればよいのだ(「いわゆる B 級ホラー」がだめなら「ミニシアター系」と読み替えればよい)!

で、観てみたのだけれど、それほど悪くはなかった。というかまあ年代的には微妙な位置づけであるけれど、ソウ に代表される状況限定スリラー(こういう系列の映画の話をするときに持ち出す映画として最もわかりやすい例になってしまった)として「映画制作科生徒の卒業制作ドキュメンタリー」というモキュメンタリーはとてもオイシイのだ、ということであり、後に多くのフォロワーを生み出すことからも(商業的にヒットすれば当然だろうけれど)ひとつのモデルとして完成されているあるいは完成されているとみなされているのではないか、ということ。

世間の評価はやっぱりアレなのだろうか、とか思い検索をかけてみるも(マイナーかつマニアックなジャンルの愛好者としてはダメ行為)、つまらない派の批評はあまり意味がないとかそういうアレでした。

  • ヘザーが言い合いやら何やらを撮影し続けているのはおかしい
  • 最後のシーンで一緒に行動していないのはおかしい
  • 結局何が何だかわからないままで何が怖いのかよくわからない

というご意見がいくつかあったのだけれど、ヘザーがあれだけ映像キチガイである点を考えると(呪術的なオブジェクトを執拗に撮影する、とか)(設定として不気味、という話であればそれは全く意味のない批評)(ああいう人いますよ!)彼女自身が映像中で説明するように、どんな物事でも記録しておこう、という主張を持つことは全く不自然ではないし、喧嘩がヒートアップしたところでは一旦映像が途切れてクールダウンしたところから再開、とか、むしろ真実味があるとさえ言えるのではないか、とか(タイムスタンプもないし時間の概念が分かりづらいけれど、九十分に八日間納めれば撮影していない時間がどれくらいか、を推測することだってできる。起きている間はずっとカメラを回していた、わけではない。バッテリーもないし)。

最後のシーンで一緒に行動していない点については、ヘザーのみが知っている事実がひとつある、ということがポイントではないでしょうか。彼女がそれを告げずに破棄してしまったこと(手を洗うシーンね)を考えると、彼女だけ及び腰で後ずさり、そのことを知らない人は必死になって飛び込んでいく、ということであって、要するに罠か何かだと怪しんでいる人だけ出遅れた状況になるのは当たり前のことなわけです。あと最後周辺のシーンで冷静に撮影するとかしないとかは、むしろただカメラを持ってるだけで意識していないとかそういうことではないでしょうか。

結局何が怖いのかわからない、という人は想像力が発達するまでハリウッドのお世話になるといいと思うよ!空想の余地の残っていない映画というサービスを受けたいのであればそういう映画を選択すればいいし、スクリーンに何もかも投影されているようなものを求めるのであればドキュメンタリーおよびそれに類似するものを観て楽しもうと思うべきではない。作り話ならともかく、そうでない(ように意識された)場合においては完全補完というのは不自然であるよ、と。

あと出演者全員頭悪そうな顔をしていて、演技なのか演技じゃないのかわからないアメリカンな感じのノリがとてもベストチョイスだと思いました。

土壌としては日本にもああいった映画のネタは数多くあるように思うのだけれど(「八つ墓村」のモデルになった 津山三十人殺し だとか)(「リング」だってムラ社会に封印されたじめっとした部分が土台になっている)、日本でああいったホラーが制作されない理由はやっぱり日本人の気質なんだろうなあ、という思いを抱いたりするよ。日本人はそんな状況に逢ったら果敢に行動するのではなく沈黙を選んでしまうのではないか(ミートゥー)。「触らぬ神に祟りなし」という。

2006年01月03日

アメリ

面白い面白いと色んな人が言うものだから決して観るまいと心に誓っていたのだけれど、ていうかまあ実際にはそれほど強い意志でもって観なかったわけではなくてただ縁がなかっただけのことであるのだけれど、というのも僕は初対面あるいは仲の浅い人には必ずドン引きされるくらいにスプラッターやホラーが好きだからであるのだけれど、それにしてもあのようなデコラティブな血液や傷がどうして生理的嫌悪感でもって人々に受け入れられがたい存在となってしまうのか、ゾンビの存在を愛してこそいないものの快いと思っている僕にとって、ホラー映画否定派(積極的否定派 ≠ 非・未肯定派)が槍玉に挙げる子供にとっての教育的悪影響だとかそういった要素については、映画後の家族の食卓において円満にフォローされるべき問題であると考えられるものだ。もちろん僕においては幼少時のジェイソンおよびフレディ・クルーガーとの接触という体験がろくでもない影響を及ぼしていることは明らかであり、例えばほのぼのラヴコメディであるところの「アメリ」について語ろうとした矢先にスプラッター映画におけるカリスマについて語る羽目になる、などが顕著な例である。

で、知り合いに好意で DVD を貸していただいて、傲慢にもしばらく観ずに放置しておいて、先日機会があったのでようやく観るに至った。このようなダメ人間が身近に居ることについての彼および彼女らの精神的苦痛たるや筆舌に尽くしがたいものであると諸兄らは空想するであろうが、これも全てフレディ・クルーガーのマインドコントロール的なそれによるものであると考えられると言えばよいのだ。僕が。

で、肝心の映画の中身はというと、まあ面白かったのであるけれど、よくできているからこそ気になる部分がいくつかあるのである。例え僕がスプラッター側の人間でありラヴコメ側の人間でないことを加味したとして、だ。

まず第一に、アメリは罰を受けないのか?彼女が何かしら人助けをしようと画策するシーンは愉快であるけれど、いたずらしっぱなしでいいのか?野菜店の店長(面倒な名前なので忘れた)なんぞは哀れなものだ。あとカフェの客のレコーダー男(そもそも名前を覚える気がなかった)と病気タバコ番(アレルギーの子)の二人だって哀れなものだ。父親はちょっと羨ましい。あれだけ引っ掻き回しておいてのうのうとハッピーエンドとは、それこそ情操教育に悪いではないか(こぶしを机に叩きつけ、鈍い音を立てると同時に悶え苦しむ)!

次に、彼女はあのハッピーエンドで満足なのか?ユニークでファニーでコケティッシュ(超死語)なあのアメリが、普通の(ちょっと変わった)男と一緒にいることで幸せになれるのか?言うなれば過剰な保護環境により感情の一部を欠落させられた、つまりある種の適応障害的な面を持つ女性があの証明写真マニアとハッピーエンドを迎えられるのか?迎えられそうな気がするが、それはともかく、時間差でお宅訪問で面会でキスでベッドイン、で普通の恋愛を成就してしまうのか?それまでの人生の否定にすらなりえるじゃないか(椅子を蹴り飛ばし向こう脛を抱えて唸る)!

あと何か他にもいろいろあったような気がするのだけれど、仕事もろくにできない店員に鍵を持たせてアパートに野菜を配達させる習慣は一般的なのでしょうかとか、公衆電話に電話をピンポイントで掛けることは簡単なことなのでしょうかとか、あれだけ美人だったら引く手数多だろうとか、ドワーフ(ホビットだっけ?)を撮った写真のアングルなんかがどれもいい感じだとか、まあそういうことです。

だから君たちは安心してスプラッターを選択してよい(結論的にはこういう方向性でお願いします)(この文章はリハビリ的なものだと思ってください)(いわばリハビリズム)(ごめんそれは違うよね)(ごめん……)。