ジャガイモの毒を小道具に使ったショートショートを書いたことがあって(内容は実にくだらないものなので敢えてどれとは示さないけれど)、それに対して(積極的ではないけれど)リアクションをいただいた、というか、リンク付きでのコメントを見かけました、と。じゃがいもの毒って怖いんだね笑
、とのこと。読解力不足かジェネレーションギャップかはわからないけれど、彼(彼女)がどういう意図でこのコメントを書いたか、というのがいまいち掴み切れず、多分「ジャガイモの毒で人が死ぬのかよ(笑」という嘲笑的なものではないかなぁ、という印象を抱きました、ということでこの文章を書き始めました。
死ぬこともあるそうですよ。
という、ジャガイモで本当に人が死ぬかどうか、は別に割とどうでも良くて、気になるというかちょっとアレだなぁというのは、「ジャガイモの毒では人は死なない」という根拠のない先入観か何かでもって怖いんだね笑
とコメントする前に一応念のため石橋を叩いて渡るかのように検索してみる、とかいう選択肢はないのだろうか?というような。「ソラニン 中毒」で検索すると前述のページが一番先頭に引っかかるし(そのページ自体の信憑性はともかく)、自分と正反対の意見や見方をする人が現れたとして、自分の意見や見方の正当性や根拠を再確認するようなことは選択肢として優先度が低いものなのでしょうか、ということです。
知識として正しいものを持っているかどうか、は能力評価に使われることがしばしばあるけれど、コミュニケーションの際には割とそんなことはどうでもいいことが多くて、つまり、ジャガイモの毒が人を殺すことがあるかどうか?なんてことを知っていなきゃいけないということはほとんどの場面において重要ではないだろうけれど、ジャガイモの毒が人を殺すことがあるかも知れないことを可能性として認識できるかどうか?は割と重要だったりするわけですよ。無知は罪ではないけれど恥にはなり得るのです。
無駄に長くなりそうなので適度に切り上げる。