通販で底本を購入した して、青空文庫 に掲載されている分はカバーできる(刊行された二冊の詩集の底本となるものを入手できた)ので、青空文庫のファイルを使わずに一から入力などしてみた。底本の記述も修正してみた。
で、入力中に「文庫によってルビが振ってあったりなかったりするのは何だろう」みたいなことを頭の片隅に置きつつあれこれしていたら、編者あとがきみたいな部分に書いてあった。
なお、この詩集は角川書店版『中原中也全詩集』(昭和四十七年)を底本とした。仮名遣いは歴史的仮名遣いを保存したが、漢字は常用漢字を用いた。また読み易くするため、中原独自の漢字表記を一般的表記に改め、編者が適宜振り仮名を補ったところがある。
読み易くするため
、て……。ということはつまり、新潮文庫の中原中也詩集は吉田氏によっていじられているということであって、それはつまり中原中也の詩集であるけれど吉田氏の詩集でもあるとかそういった感じでありますか。まさしくこれは要らぬお世話であるかなぁと感じるのですが、そういう原理主義的な(そもそもこの表現はどうかと思わないでもないけど、大元に忠実という意味合いとか皮肉とかであると受け止めてください)読者はさらに底本である角川書店の全集を買え、ということでしょうか。
印刷時の致命的な問題、とかでなければ(字体が現存してないとか)(そんなことあるのか?)可能な限り大元のデータを流通させるべきだとか、ていうか改変しちゃったら別物なんだから故人の名前使うのはどうよ、ていうのは穿った見方ということになるんでしょうか。角川書店の全集買おうにも値段が値段だったり在庫切れとかだったり。言葉選びと同様に文字選び・表記選びも著者の能力のひとつじゃないかなぁと素人ながらに思うわけですが。読むのも眺めるのも楽しめるとか。
ということを止め処なくぐだぐだ言っても仕方がないわけで、手元にあるこの文庫が不具(これ差別表現ですかひょっとして)であるような心持になりはしつつも、努力すればどうにか大元のデータを入手することはできなくもなさそうだし、とか。しかしこれは相当がっかりですよ。今年のがっかりランキングに食い込みますよ。物凄い勢いでいろんなことがどうでもよくなりつつあります。昔好きだったモーリス・ルブランとかも今の文庫なんかじゃ全然違うのかな。ますます古本屋志向。